他人の期待に応えようと、他人が期待する演技を続ける。その結果、他人が思う自分像ができあがり、そこから逸脱することが困難になる。他人の期待通りに生きていればいいという楽な側面と、もはやこの世界のどこにも自分などいないのだと突きつけられる無情な側面と。

そんな折、かけがえのない人と出会う。

道化を突き進む人間からすると、かけがえのない人に対して、結論、酷い仕打ちをしてしまう。
なぜなら、平生、他人の期待に応えようと道化を演じ、爽やかで小気味よい表情ばかりを作り続けるその裏側には、疲弊し排他的でドロドロとした表情が潜む。

かけがえのない人だからこそ、薄っぺらい道化の仮面を外して接せられる。そんな、唯一無二の存在でもある。その仮面を必要としない相手だからこそ、かけがえのない人なのだから。

ただ、その仮面のなかには、道化師として他人に笑いや喜びや刺激を与え続ける自分ではなく、醜く下劣で湿りきった自分がいる。
最初の頃はまだいい。かけがえのない人は、その広い心のままに、「他人に隠したいそんな一面すらも曝け出してくれてありがとう」などと言ってくれる。

が、そんな美談は長くは続かない。そんな劣情の牙を受け止め続け、正気を保ち続けられる人間がいるものか。大抵の場合、かけがえのない人のピュアな性格は破壊され、お互い当初のフォルムを失い、バランスが崩れ退廃していく。

申し訳ないとは思いつつも、その負の流れは止められない。なぜなら、そんな自分こそが、演技のない自分そのものだから。

失いたくないものだからこそ、失ってしまいたいとも願う。破壊して、ごめん。という罪の意識と謝罪の念から解放されたいという、どこまでも利己的な思考。そして、それすらも許して欲しいと懇願する。人間とはなんと美しくも惨めな生き物なのだろうか。


劇場
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又吉 直樹
新潮社 (2017-05-11)
売り上げランキング: 10,288

一番 会いたい人に会いに行く。
こんな当たり前のことが、なんでできへんかったんやろな。

演劇を通して世界に立ち向かう永田と、その恋人の沙希。
夢を抱いてやってきた東京で、ふたりは出会った――。

『火花』より先に書き始めていた又吉直樹の作家としての原点にして、
書かずにはいられなかった、たったひとつの不器用な恋。

夢と現実のはざまでもがきながら、
かけがえのない大切な誰かを想う、
切なくも胸にせまる恋愛小説。

演劇のなかに自己表現の場を求め、友人とともに立ち上げた劇団で脚本を書き演出を務める、永田。本作の冒頭は、永田の「純文学」らしい振る舞いにはじまる。

冒頭、永田は画廊のなかを覗く。すると、同じく画廊のなかに視線を送る女性の姿。
永田はやや狂気じみた振る舞いで彼女を追い、声をかける。後に永田の恋人となる、沙希。

本作は、演劇を通してしか世界と触れ合えない永田が、それでも理想と現実のギャップに苛まれ、虚像と実像との乖離に苦しみ生きていく姿が描かれている。

そしてもうひとつ、そうやって苦しみ生きていく永田のことをただ純粋に想う、恋人との世界が描かれている。これまた純文学らしく、陽の光など微塵も差し込まない深海に巣食う生き物のような恋愛感が、陽の光そのものでもあるかけがえのない大切な人を苦しめる。

本作に描かれているのが、不器用な恋だの切ない恋だの言われているが、そんな程度じゃ済まない。永田は沙希のことを大切に思っているが、大切な人を大切に思うとは一体どういうことなのか、実は永田にはそれがわかっていないはずだ。その未熟であり成熟しきった世界観が、本作を純文学然とさせているし、本作の全体を悲哀で包んでいる。

火花と同じような温度感や空気感で読めるものとページを繰っていると、前作よりもはるかに重々しい湿気が根底を這っていることに気づかされる。昭和の純文学を読んでいるときのような、あの陰鬱さに呼吸ができなくなるような重苦しさほどではないが、息苦しさを感じることは確かだ。

物語の完成度は、前作・火花のほうが高いかもしれない。ただ、首を締められ心を捻り上げられるような純文学らしい心酔は本作のほうが圧倒的に強かった。

もしも、本作のような恋愛がこの世にあるなら、なんと美しいと感じるだろうか。ただ、こんな恋愛なんてあって欲しくない。すべての恋人たちが、ポップで軽妙に笑い合いながら、毎日を、一生を過ごして欲しい。そんな願いとは真逆な恋愛小説。

あなたは、かけがえのない誰かを、正しく思ってあげられていますか?