言葉がなくとも心を通わせることはできよう。ただし、言葉がなければ「正しく」心を通わせることはできまい。言葉が不十分なために数多の誤解が生まれ、その誤解を解こうと焦り躍起になる。その最中、またさらに新たな誤解が生じ、余計に人間関係は拗れる。

音楽や身振り手振りで心が通じることもあるだろう。しかし、言葉がすれ違うことによって、壊滅的に人間関係が崩壊することだってある。ほら、それを修復しようと試みるのだって、やっぱり言葉じゃないか。

ただ、侮ることなかれ、人間の「何かを訴えたい、伝えたいという衝動」は凄まじいもので、その最たるものが生まれたての赤ん坊。僕らは生まれた瞬間にして、人間として最も強烈で強靭な伝える術を備えていることを証明する。そうして生きていくうち、その伝える能力を弱体化させる悪魔のような「言葉」というものを身につけていく。あの生まれた瞬間の初期衝動を否定するかのように、言葉に身を寄せ、どんどんと主張を飲み込んで行く。

なんだ? 叫ぶだけでは物足りないのだろうか? 喚くだけでは物足りないのだろうか? 岩をも砕かんとする強い主張をひた隠すことは、誰から学んだことだろう? 誰に義務付けられたことだろう?

小器用にも言葉を身につけた僕らはもう、言葉を捨てることでは赤ん坊に戻ることはできない。きっと、思考や伝達手段を失うことが産み落とすジレンマに苛まれ、破裂寸前の風船のようにメリメリと伝達欲求が肥大化する。おそらくついには発狂してしまうだろう。その様が、まるで赤ん坊のようである可能性はある。しかし、一体その様が何を表現しようというのだろう。

残像に口紅を (中公文庫)
筒井 康隆
中央公論社
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「あ」が使えなくなると、「愛」も「あなた」も消えてしまった。世界からひとつ、またひとつと、ことばが消えてゆく。愛するものを失うことは、とても哀しい…。言語が消滅するなかで、執筆し、飲食し、講演し、交情する小説家を描き、その後の著者自身の断筆状況を予感させる、究極の実験的長篇小説。

筒井康隆による実験的小説。
次々と言葉が消えていく世界で、人はどのようにして生きるのか。実験の主旨だけ掻い摘むと、幾重にも広がるストーリーが予想される。その中で、筒井康隆がどういった世界を描くのか。強く惹かれ本作を手に取る。

本作、筒井康隆の実験小説でありながら、また言葉が次々と消えていくという架空の世界と思わせておきながら、やたらと現実味を帯びている。
主人公である作家・佐治勝夫とその友人の評論家・津田得治。この二人の企みにより、物語は紡がれる。が、紡ぎ方が特殊極まりない。なぜなら、言葉を失っていく世界を主人公自ら小説の中に描きながら、本人自らがその世界に挑んでみたり窮屈さを感じてみたり、時に失うものへと思いを馳せてみたり。

本作、言葉が消えていくことで、かけがえのないものに気づいたり、やたらめったら感傷的になったりという予想がつきやすい物語では、断じてない。何より実験の香りは常に漂っているし、文学的な趣向から外れることなく、それでいて読者に何かを感じさせようという執念。そして筒井康隆の、言葉を制限されたとしても何不自由なく語らんとするその気迫。

架空の世界にありながら現実世界のように生きる様に、一体何が本当なんだ? と困惑する仕掛けも盛りだくさんで、気軽に展開を予測すらさせてくれない。中盤までは、言葉が消えていくことなど、言葉を知る作家には何ら痛手ですらない、と感じさせるほど自然な文章が続く。

そして、やがては大半の言葉が消失し、読者は知ることになる。言葉を失うことは、自由に生きることすら奪うことである、ということを。その結果、人はどうなってしまうのか。何を考え、どう行動するのか。そして、それがどのように描かれるのか。実験結果は、本作を通して体感してもらいたい。

例えば、異国の人と会話をするとき、仮想的に言葉を失った感覚を味わうことがある。道案内や数分程度のコミュニケーションではなく、仮に真剣な議論を推し進めなければならない機会があるとする。そういったとき、自分の中には言葉を持ち合わせているけれども、相手に注入すべき言葉となると、それが見当たらない。伝わらないジレンマではなく、伝えられないジレンマ。それが頭じゃなく胸を圧迫し、仕舞には胸がはち切れんばかりの息苦しさを覚える。息苦しさではなく、生き苦しさである。

言葉が見つからない暗闇の中から、必死になって光を求める。僅かばかり残された可能性に期待し、満点とは到底呼べない代替言葉で、相手の中に潜り込もうとする。正解ではないジグソーパズルのピースをねじ込むような感覚。そういった感覚を本作から感じ取った。そりゃ、言葉が消えていくんだから、本作だって最終的には感覚の世界になって然るべき。

すごく美味しいものを食べた瞬間、「おいしい」という言葉がなければ、その他の言葉で人は代替する。本当は「おいしい」と言いたいところだが、本意ではない言葉で補う。やがては代替する言葉すらも消えて行く。すると「おいしい」という感情、感覚すらも失ってしまう。結局のところ人は、言葉がなければ感情の輪郭を描き出せないのだろうか。その辺りも、本作を読めば体感できるのではないだろうか。

我々は、感情や感覚を言語化したのか、それとも言葉によって細やかな感情や感覚を自覚したのだろうか。歴史は前者というだろうけれど、本作を読んでいると、どうやら後者なのでは? という気にすらさせられる。

有限の言葉で無限の感情を伝える素晴らしき人間の生き様をご覧ください。