未来を予測するということは、自分が会得した知識をもとに、それらを発展させたり膨らませたり組み合わせたり掛け合わせたりして、像を創り上げること。細やかな知識を持っている人であればあるほど、人々を納得させられる未来予測が描けるはずだ。

ただ、この、会得した知識をもとに、ってところがポイント。これまでの過去の知識は会得でき得るものだったかもしれないけれど、これからの知識は「これまでの常識を積み上げてきた人たち」にとって、その積み上げてきたものを、一度破壊しなければ飲み込めない類のものである場合が多い。

めちゃくちゃシンプルに言うと、たとえば大阪しか知らない人間が、東京の街のことを紹介されたとする。そういったとき、大阪しか知らない人の多くは、「あぁ、大阪でいうところの、京橋って感じやね」などと言う。

未だ知らなかった街という新しい価値観が訪れているのにも関わらず、既存の知識、こういった街は京橋的な街だという過去の積み上げに依存してしまう。そして、その東京の街が実際は、大阪の京橋よりもより発展した街だったとしても、一旦は京橋という枠に当てはめ、京橋のサイズで測ろうとしてしまう。

確かに新しい価値観を受け入れるとき、古い価値観との違いをもって理解したり、古い価値観との差分で理解しようとすることもある。ただし、これからの世の中は、そうはいかない。これまでの積み上げで予測しようとすると、大きく方向性を誤ってしまうことだろう。

なぜなら、とある時点で多くの年配の方たちが、そのあまりのスピードの速さゆえ、インターネットがもたらす技術革新から目を背け始めたからだ。その時点で、過去と未来は分断されたはず。これからは個々人がパラレルな世界に住まうような時代になるだろう。

過去から未来を予測するのではなく、未来に生まれるであろう技術や産業から今日までの道のりを逆算し、その道のりを予測と呼ぶほうが相応しい時代なんじゃないだろうか。


団塊の後 三度目の日本
堺屋 太一
毎日新聞出版 (2017-04-22)
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ベストセラー「団塊の世代」の堺屋太一氏が、団塊がリタイアした後の日本の姿を描く予測小説。

物語は、東京五輪の5年後の2026年1月から始まる。2020年の東京オリンピックを待たずして、日本経済は深い停滞期に入る。この状態に2025年に首相に就任した若き首相の徳永好伸は、「経済成長を気負わず、数値を気にせず、外国と競わず」の「身の丈の国・日本」を掲げる。

一方、それに大反対する大阪を基盤とする国政政党を率いる大阪都知事の杉下晋三久は、日本は断固「世界の主要なプレーヤー」にとどまるべきと主張し、「日本の倫理と仕組みと仕方の全面改革」を提唱し、「三度目の日本」を作ることを目指す。これが、この小説のタイトルでもある「三度目の日本」である。

「一度目の日本」は、明治維新から第二次世界大戦敗戦(1868~1945年)までの「強い日本」を目指した時代。「強い日本」は富国強兵・殖産興業などを求めた。それは第一次世界大戦で戦勝国となった1918年頃が頂点で、その後は下り坂、第二次世界大戦敗戦をもって終わる。
「二度目の日本」は戦後日本、効率と安全と平等を倫理として豊かさを追求した日本。アメリカの豊かな物量に憧れ、絶対的な平和主義を受け入れ、理想化した民主主義を創ろうとした。だが、それも1989年の冷戦構造の崩壊とバブル経済の挫折で壊れ、細川連立政権や阪神大震災で豊かさを求めた時代は終わる。その後、日本経済では「失われた30年」が続き、08年のリーマン・ショックや11年の東日本大震災で「豊かな日本」を追い求めた「戦後日本」は終焉する。

そして、2026~27年には、旧体制の倒壊と新体制の誕生、倒れる者の悲鳴と苦悶、生まれ出るものの未熟と喧騒――そのようなものが渦巻くことになる。27年に日本は「どん底」から這い上がるためにも「三度目の日本」を興すタイミングなのだが……。

堺屋太一氏の予測小説。現在の内閣官房参与であり、元通産官僚・経済企画庁長官・元内閣特別顧問の重い責務を担ってきた堺屋太一氏だけあって、官僚の世界、政治の世界、社会の内側や裏側のことについて、こと細かく描写され予測されている。

その世界に精通している人にとっては物足りない予測もあるのかもしれないが、そこまで深い知識を持たない人にとっては、ほほぅ、と納得させられる予測も多かった。

特に、作中に登場する大阪都知事の杉下晋三久が放った発言、「何しろ今の日本の問題は低欲社会。『人間は何かを欲しがっている』という前提に立つ経済学では解明されない状態です」というフレーズには、いいとこ突くなと感心してしまった。

本作、官僚目線や政治目線から、日本の問題が浮き彫りにされ、その原因に焦点が当てられる。そして、それをいかに是正していくかが、立場や肩書を異にするさまざまな登場たちの思考や発言から示されていく。

そこには、堺屋太一氏が「こうなって欲しい」「こうしたい」と望んでいるエッセンスが見え隠れしたような気もしないではない。ただ、たとえそうだとしても、それをこの日本でいかに実現するのかを物語仕立てで語るのはすごいことだと思わず脱帽。

ただ、未来予測のなかに、インターネット技術やデジタル技術への言及が乏しいところが残念だった。個人的にはこれからの時代、コンピューターと人間の境界線が今よりもっとその輪郭を薄め、無意識にコンピューターと溶け込むような時代がやってくると考えている。

AI技術が市民レベルに普及する頃には、世の中の商品やサービス、メディア、広告、そして政治にいたるまで、何もかもが激変していることだろう。国会のあり方も選挙のあり方も、今とはまったく違っているかもしれない。

ただ、未来のサイズに合わせて今の国を変えようとすると、たくさんの制約があることと、その制約を取っ払うためのアップデート機能が日本に少ないということ。それらが足かせとなって、技術革新後の我々市民と、技術革新されない(できない)政治や官僚、といったツートーンの世の中ができあがるかもしれない。

ともかく、過去から未来を予測するうえで、インターネットがもたらす技術革新の釘をグサッと差し込んだ瞬間、これまでの人たちでは予測できない未来へと光は拡散し分散する。そうなるともう、これまでの人たちでは、その光を追うことができない。これまでの人たちが思う未来は、確実にやってこない。

本作は過去の延長線上から未来が描かれているが、これからの未来は、遠い未来から逆算して近い未来を予測するような手法が必要なのではないだろうか。