人は、どんどんと変わっていく生き物じゃないと思う。生きていくうえで、何かに気づいたり何かを思い出したりして、それを繰り返して生きて行く生き物なんだと思う。その気づきや思い出す行為っていうのは、もともと自分のなかに眠っていたことを掘り起こすことで、だから、たくさん人に会ったりたくさん本を読んだりたくさん勉強したりして花開くものではないはず。

ある日、突然、はっ、となるものだと思う。

その衝撃が凄まじければ凄まじいほど、その日からもう、まっしぐら。成功には、運とか縁とか才能とかたくさんの要因が絡んでくるけれど、その日からどこまでも走ることができれば、もう結果なんかどうだっていい。もう、ただただ楽しんで、どこまでも行ける。

苦悩っていうのは、その、はっ、になるまで延々と続く。繊細な人間であればあるほど、苦悩の締め付けは強く、自問自答の日々が続くだろう。だから人はみんな、どうにか苦悩から逃れようと、もがき苦しむ。その行為がまた、新たな焦燥やジレンマを生み、さらに苦悩する。でも仕方がない。だって、まだ、はっ、ってなっていないんだから。

人と同じことができず、同じことをする意味さえも掴めず、社会が敷いたレールからどんどんとはみ出していく青年は、人と同じことをしないという価値を評され、社会的に成功する。

そこに広がっていたのは、世界の終わりじゃなくて、新しい世界のはじまりだったはずだ。


ふたご
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藤崎 彩織(SEKAI NO OWARI)
文藝春秋
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大切な人を大切にすることが、こんなに苦しいなんて──。
 いつも一人ぼっちでピアノだけが友達だった夏子と、不良っぽく見えるけれども人一倍感受性の強い、月島。彼は自分たちのことを「ふたごのようだと思っている」と言いますが、いつも滅茶苦茶な行動で夏子を困惑させ、夏子の友達と恋愛関係になり、夏子を苦しめます。

 それでも月島に惹かれる夏子は、誘われるままにバンドに入り、彼の仲間と共同生活を行うことになるのですが……。

 ひとりでは何もできなかった少女が、型破りの感性を持った少年に導かれるままに成長し、自らの力で居場所を見つけようとする姿を描いた、感動の青春小説です

SEKAI NO OWARIでピアノ演奏している藤崎彩織の書いた本が、直木賞候補になったということで、興味があり読んでみた。

自叙伝的であり、ただ、そのすべてが事実なのかどうなのかわからないように、きっちりとフィクションでラッピングされた作品。
二部構成であり、第一部は、破天荒に生きる月島という青年と、主人公夏子とのつながりが描かれている。二人のつながりを描いているのだけれど、夏子には月島とつながれないというジレンマがあり、つながりたいと望む心の葛藤が描写されている。

第二部は、二人がバンドというつながりを持ち、月島が発揮する推進力に任せ、夏子をはじめメンバーたちが浮上していくさまが描かれている。

SEKAI NO OWARIの音楽をよく聴く自分からすると、すべてが事実のようにも錯覚され、ノンフィクション作品を読んでいる気分を味わえたが、きっとそうじゃないんだろう。だって、藤崎彩織は作中でいうところの月島、以外の男性と結婚しているし、子どもだっている。

それなのに、藤崎彩織は未だに作中でいうところの月島、に恋をしているような錯覚をこちらに味わわせ、「女として月島に未練と悔恨と本音を伝えるために本作を執筆したのでは?」と感じさせるほどのリアリティがある。

もしも本作のすべてがノンフィクションで、夏子の気持ちが藤崎彩織のそれだったとしたなら、かなり凄まじい。SEKAI NO OWARIの輪郭をなぞった話の展開はすべて事実なんだと思うから、要するに夏子の気持ち。それはいったいどっちなんだろう、と。

そんな風に深読みして読み進めると、尚、面白い作品。
自叙伝的に読んでもおもしろいし、第一部はフィクションとしても読み応えあり。SEKAI NO OWARIが何たるやを知ってから読めば、尚、楽しめると思う。

他の人間とは根本から違う月島が、さまざまな苦悩を経て、自らの信念に気づき、はっ、とする第二部。そこからの月島の鬼気迫る姿は、圧巻。またそれが、SEKAI NO OWARIのボーカリスト、深瀬慧と重なるからこそ、余計に迫力がある。

深瀬慧という人間が、なぜあれほどまでに広大な世界観を持ち、それを体現した世界を創り上げ、言葉を紡ぎ出せるのか、その謎がたっぷりと詰まった作品といっても過言ではないだろう。