美しい心を、誰だって持って生きて行きたいと思っていたはず。生まれた瞬間から邪悪な人間なんて、いないはずだから。

その美しい心を、踏みにじる奴が必ず現れる。
それは同級生の場合もあれば、先生の場合だってある。近所の連中かもしれないし、もしかすると家族のなかの誰かかもしれない。

そういう悲しい出来事を経ると人には、美しい心を保って生きているほうが損をするんじゃないかという猜疑心が芽生えてくる。現に、薄汚れた人間たちがほくそ笑みながら生きている横で、キレイな心をした人たちが泣いているのを見ると、余計に疑いたくもなる。

「キレイごとばっかり言ってちゃ生きては行けないよ」と、人は言うけれど、そんな風にならなきゃ生きていけないのなら、果たして生きていく意味なんてあるのだろうかとも思ってしまう。

人は弱い生き物だということはわかる。でも、悪い生き物じゃないはずだと信じたい。もしかすると、弱い生き物だから悪いことに誘われてしまうのだろうか。

他人から冷たくされた経験を持つ人は、同時に優しさが何かを知ることになる。
世の中から冷たくされた経験を持つ人は、生きていく強さを身につけることになる。
だからといって、命を落とすまでに追い詰められては意味がない。

自分以外の誰かを見て、手を差し伸べる勇気、それが人の心に温かみと逃げ場をもたらすこともある、ということを忘れてはいけない。

美しい心とは、他人を温めてあげられる優しさ、なんじゃないだろうか。


新訳 フランダースの犬 (角川つばさ文庫)

KADOKAWA/角川書店
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「行こう、ぼくの大好きなパトラッシュ!」すて犬・パトラッシュを助けたのは、心やさしい少年・ネロ。大親友になったふたりは、楽しい時も、つらい時もいつでもいっしょ!貧しくても、幸せな毎日を送っていました。でも、その幸せは長くはつづかなくて…。この世にふたりっきりになってしまったネロとパトラッシュが、クリスマスイブにたどりついた、ある場所とは?世界中が泣いた、時をこえて愛される名作。小学中級から。

幼い頃、アニメで見た『フランダースの犬』。
度々、その作品名を目にしたり耳にしたりするけれど、どんな話なのかを詳しく知らない、もしくは覚えていないということに気づき、読んでみることにした。

ラストのシーンはあまりにも有名なため、もちろん知ってはいたものの、物語のすべてを通してあの場面にたどり着くと、心が痛み過ぎて涙が止まらなくなった。
子どものころは単なる感動作品として受け止められていたかもしれないが、あまりにも多くのことを見聞きし経験してきた今、感動とは似て非なる感情が頭をもたげた。

この作品は、どういう意義を持って生まれたのだろうか?
と、そこまで深く考えさせられた。

だって、感動作品には違いないし、端々にたくさんの教訓も詰まっている。
でも、ただ泣かせたいだけの作品なわけがないし、教訓を用いて説法する作品なわけでもない。
もっと重みがあるのは間違いない。この作品をひとことで言い表せる何かがあるはずだ。

そう考えれば考えるほど、この作品の意義から遠ざかっていくような気がして悔しい。

そこで思った。
ネロとパトラッシュを美しい心の象徴としよう。
そして、その美しい心を踏みにじる役目を、僕は担ってしまっている瞬間もあるかもしれない。
少なくともそれはやめよう。自分が美しい心の持ち主になれなくとも、それだけはやめよう。
美しい心というものに対して、自分がどのように関わっていくのか、それを学ばせてくれた作品。

そう思うことにした。

きっと多くの人たちは、ネロとパトラッシュがかわいそうで泣けてくる話だとか、ネロとパトラッシュの深い友情に涙する話だとか、そんなひとことで本作を済ませる、済ませている、かもしれない。

でも、大人になった今、美しい心をとっくの昔に失ってしまった今、改めて読んでみてほしい。
そんな表層的な部分だけでは掬いきれないほどの名作だということが感じられるはず。

ネロとパトラッシュの生き様を見て、言い表せられない複雑な感情を突き破って流れてくる涙の意味を、しっかりと考えてみたくなる名作です。