私って、どこか人と違うな。うまくやれている人たちを見て、自分を卑下してみるときに口にする。かと思えば、私って、どこか人と違うな。うまくやれない自分を正当化するときに、また口にしてみる。

私って、自分のことをついつい客観視しちゃうんだよねと、常にクールな自分をアピールしてみる。その実、私って、自分のことをついつい客観視しちゃうんだよねと、常にクールな自分をアピールしていることが無意識の癖だってことをちっとも自覚できていないことが、他人に筒抜けになっていたり。

たとえば、プールで泳ぐ。
他人のクロールの息継ぎを見て、とても滑稽で、とても不細工だなって感じる。自分が息継ぎするときは、あんなにも不細工になるまいと考える。そして、泳ぐ。不細工な息継ぎで泳ぐ。誰かにそれを指摘される。あんた、不細工だなって。そして言い訳する。自分が不細工な息継ぎをしていることなんて分かってるよって。不細工になるまいと泳いだはずなのに、言い訳する。もしくは、不細工な息継ぎしかできないんだよねって開き直った演技をする。本当は、流麗な息継ぎをしているつもりなのに、できていなかったことを照れ隠そうと演技する。または、息継ぎは不細工なほうがかっこいいんだよね、一生懸命さが伝わるでしょと、斜に構える。

コンビニでは、慣れた動作しか要求されない。店員も客もそう。
もちろん、イレギュラーはたくさんある。新商品が入荷したときのオペレーションや、新しい電子マネーの決済が導入されたときなどは、不慣れなこともあるだろう。陳列のレイアウトが変わったときに、探し求めている商品がすぐに見つからないときもあるだろう。でも、そのどれもが、慣れたイレギュラーにしか過ぎない。だから、コンビニでは、安心感に包まれる。ヘラヘラと店内をウロつきまわることも、無愛想に不要レシートのボックスに、手渡されたレシートを放り投げることも、なにもかもに安心できる。その空間の中では、小奇麗なレストランの中、ナイフやフォークの使い方が分からず挙動不審になったり、システムのよく分からない風俗店の待合室で、先の読めない不安に襲われることもない。

つまりは、息継ぎが不細工だろうが、どうだっていい。

コンビニ店員だって、メジャーレコードレーベルに所属するミュージシャンだって、どちらも社会の歯車。歯車の自分が今日も世界を順調に回していると感じるか、自分は所詮、歯車だから、世界のなにひとつさえも変えられないと感じるかで、その景色はまったく違ってくる。

なにも考えず、なにも悩まず、なにも疑わずにぼんやり生きたとしても、人の命はやがて尽きる。なぜにこんなにも世は生き辛いんだと、絶望の淵に追い詰められながら生きたとしても、人の命はやがて尽きる。うまく生きなきゃ飯を食えないじゃあないのと捻くれるかも知れないが、それは社会の仕組みに適応できないだけで、人間として適応できているかどうかは、また別の話。

さあ、生きよう。自ら扉を開かなくとも、その場に立てば自ずと扉は開く。コンビニは今日も、自動ドアを開いて、あなたを優しく迎えてくれる。


コンビニ人間
コンビニ人間
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村田 沙耶香
文藝春秋
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36歳未婚女性、古倉恵子。 大学卒業後も就職せず、コンビニのバイトは18年目。 これまで彼氏なし。 オープン当初からスマイルマート日色駅前店で働き続け、 変わりゆくメンバーを見送りながら、店長は8人目だ。 日々食べるのはコンビニ食、夢の中でもコンビニのレジを打ち、 清潔なコンビニの風景と「いらっしゃいませ!」の掛け声が、 毎日の安らかな眠りをもたらしてくれる。 仕事も家庭もある同窓生たちからどんなに不思議がられても、 完璧なマニュアルの存在するコンビニこそが、 私を世界の正常な「部品」にしてくれる――。 ある日、婚活目的の新入り男性、白羽がやってきて、 そんなコンビニ的生き方は 「恥ずかしくないのか」とつきつけられるが……。 現代の実存を問い、 正常と異常の境目がゆらぐ衝撃のリアリズム小説。

純文学な作品が好きな理由は、語り部である主人公がこの世に本当に実在する人物なんじゃないかと、その人物のありのままが描かれているんじゃないかと錯覚し、その人間に肉薄できるから。創作された物語ではなく、ひとりの人間をたっぷりと味わえた気がするから。読んだ後の妙な重みを感じられるから。

本作、「普通」と「異端」の意味を考えさせられた。「普通」な人間なんて、この世にひとりもいないことは分かっている。「異端」を演じながら生きている人が多いことも、分かっている。主人公・古倉恵子の場合はどうだろう。そのどちらでもないような気がして、そんな人間を知るのは(もちろん作品の中で、だが)初めてのような気がして、とても新鮮で、とても愛着を感じた。

作中での古倉恵子の思考。仮にそれを、正常か異常かで判断してみようとしたとき、ふと、正常って、その瞬間の社会における多数決で勝利したほうの思考を指し、敗北したほうの思考が、異常だとされるんじゃないかと思った。そんな気づきが、本作の至るところで、あった。
未婚ってどうだろう。就職しないってどうだろう。友だちたちとのステータスの差ってなんだろう。普通とされる人たちとの乖離ってなんだろう。それは、埋めなければならないものなのか。埋めた結果、果たして人はどうなるのだろう。

古倉恵子の思考を描写するだけでも、すごく読み応えがある本作。それに加えて、物語もしっかり動く。動きながら、しっかりと結末を迎える。読みやすく読み応えがある作品。自分は他人とどこか違う、他人とうまく馴染めない、そんな風に感じている人にぜひ読んでもらいたい作品。ってなると、この世に巣食う人間のすべてか。

作中、「普通」の人と違う思考を持つ古倉恵子に対し、周りがカウンセリングなどを勧めたりするが、もし、医学的になんらかの病名が付された症状が影響しているとするなら、また読み方は変わってくるな。そこまで深く読まなくてもいいんかな。

もしかしたら、僕たちの心を支配する歪な心理は、まだ名前のつけられていない、発見すらもされていない、やがて誰かの手によって病名が付されるなんらかの症状が影響しているかも知れないもんな。