笑いというのは、とにかく深い、芸だと思う。
人を笑わせるというのは、とても難しく、それだけに笑わせているほうの技量、器量、度量、熱量、それらは凄まじく、まさしく、正真正銘の芸だと思う。

下積み。
芸の世界はもちろんのこと、昔は下積みの期間や、下積みの時代、うだつが上がらなければ万年、下積み。
そういった下積みを経験するからこそ、貪欲さが生まれ、這い上がろうとし、芸の中で盗めるものは盗んでやろうという、のし上がるための狡猾さを学んで行くんだと思う。

一般社会では、どんどんと、下積みと呼ばれるような制度はなくなりつつあるように感じる。
それだけ、一般社会では、新しく登場する新人たちとの価値観のギャップに、人を育てるということを放棄し、住む世界を異にしてしまっているんだろうな。
だから、下積みを経験させて、這い上がらせるなんてことに、付き合う年長も少なくなるわけだ。

芸人。
芸人さんの世界は、とても特殊な世界なんだろうと思う。
又吉著『火花』でもあるように、金がなくても先輩は後輩に対して、どんな状況でも奢ることを常とし、後輩を飲みに誘ったものの、金がないときには、借金してでも金を作って、奢る。

今ではもう使い古されてしまったのだろうか、芸人さんといえば、飲む打つ買う、道楽の限りをつくす、なんとも夢のある世界で、芸事で一発当てたときの夢の大きさと、一発当てることの厳しさが体現されている。

芸の世界には、なんでこんなにも物語がついて回るのだろうか。
芸の世界に暮らさない、市井の人たちの生き様にも、物語はついて回っているのはもちろんだけれども、芸の世界には、なぜあれほどに物語りがついて回るのだろうか。

こう思う。
芸の世界に住まう人たちは、生きるという芸を生きながらにして演じているからなんだろうと。

浅草キッド (新潮文庫)
ビートたけし
新潮社
売り上げランキング: 55,376

ある真夏の昼下がり、ランニングにショートパンツ、バーチサンダル姿のひとりの青年が、浅草六区の街におりたった。それがオイラだった。―昭和47年、大学を中退したたけしは、浅草フランス座に飛び込んで芸人修業を開始した。ダンディな深見師匠、気のいい踊り子たち、乞食のきよし等愉快な仲間に揉まれながら、自分を発見していくさまを綴る青春自伝エッセイ。

ずっと読んでみたいと思っていた一冊を、ようやく読むことができた。

浅草キッド。

ビートたけしが歌う浅草キッドの楽曲。
竹原ピストルがカバーしていた浅草キッド。
楽曲を聴いているだけで感銘を受け、涙が止まらなくなった記憶もあるほど、『浅草キッド』という単語に、妙な憧れと、妙な感傷を持っている。

ビートたけしが芸人に憧れ、芸人の下積みとして、浅草フランス座で修行をする日々が、痛快に綴られているわけだけれども、あの時代の風景というか、文化というか、人の価値観というか、街並みというか、それらが不思議なくらいリアルに伝わってくる。

それはきっと、ビートたけし本人が、浅草の人たちと触れ合いながら、実際に言葉を交わしながら紡いできた記憶が、本作に描かれているため、人間を通じた何もかもの描写はやはり、人の心に混じりっけなく入ってくるということなんだろう。

大阪の人間からすると、浅草とかいう言葉は、馴染みが薄い。
演芸という言葉よりも、漫才、もっというと、新喜劇という言葉にこそ、馴染みがある。

でも、ビートたけしという名前には、東京、大阪関係なく、誰しもに馴染みがあるだろう。

ストーリーの中ではもちろん、かの有名なツービート結成の瞬間が来るわけだけれども、読み進めていく最中、それを目の当たりにした瞬間、もちろん活字を目で追っているわけだけれども、後世、要するに今、にとてつもない影響を及ぼすことになる奇跡が起こった瞬間を目の当たりにした刹那、全身に鳥肌が立った。

きっと人類が最初に火を起こした瞬間を目の当たりにしたときと、同じような現象が、身体の中で起こっていたに違いない。
それほどに、ツービートが生まれた瞬間の重みには、参った。

もちろん、浅草キッドに書かれているビートたけし以降も、波乱万丈で破天荒な人生を歩んで行くことになるのは、日本の中でも知らない人の方が圧倒的に少ない事実なわけだけれど、そんな片鱗が、既に少年、青年の時代から、しっかりとハッキリとある。

ビートたけしと芸というものを通じて、あの頃の時代と浅草の町、そして、浅草に住まう人たちに、直接触れることのできる作品が、浅草キッドなんだと思う。
そして、ツービートの奇跡に立ち会えるのも、本書の醍醐味。

人を笑わせるというのは、とても難しく、それだけに笑わせているほうの技量、器量、度量、熱量、それらは凄まじく、まさしく、正真正銘の芸だと思う。

夢はすてたと言わないで
他に道なき 二人なのに