人が生きている中で巻き起こるいろんなことは、その人へのあくまで演出なのではないかと思うに至る出来事が、たくさんたくさんあるもんで、人によってはそんなことを言ってしまうと、怒られてしまうんじゃないだろうかって気もするけども、ともかくそんな風に思ったわけです。

スーパーマリオブラザーズというゲームをやったことがあるでしょうか?
そのゲームの中で、水中のステージがありまして、その中でマリオは泳いでステージを横断していくわけですが、コントローラーのボタンを押すと、マリオがプカッ、もう一度押すと、またしてもマリオがプカッ、ボタンをエイエイと二度押すと、マリオがプカプカッと、浮き上がるわけ。
つまりは、ボタンを押さないと、連打し続けないと、マリオの身体は浮き上がろうとすることを忘れ、どんどんと沈んで行くことになるのです。

だから何が言いたいのかというと。

20140215
生きている中で巻き起こることで、泣いたり笑ったり、いろんな感情や気持ちが波打って、それでいい意味でも悪い意味でも、生き心地を味わうことになる。

でも、それが、あくまで、あなたへの、君への、僕への演出でしかないと思うわけだ。
それなしでは、あなたが、君が、僕が、どんどんと下へ下へ沈んでしまうから。

なんでそれを、失礼なまでに演出やなんて言い放ってしまうのかというと、それは人間が麗しいほど弱く、身勝手な生き物だからこそ、そう思うんだ。

アフリカで飢餓に苦しむ子供たちのドキュメンタリーを見て、自分の生き方を反省してみても、やがて数日も経てば、嫌いな食べ物は、キッチリと皿から弾き飛ばして、残してしまう始末。

余命が残りわずかの悲しい運命を背負った花嫁の話を見たり聞いたり読んだりしてみても、やがて数日も経てば、タバコをバカバカ吸って、酒をガブガブ飲んで、添加物やら着色料やら化学調味料を摂取しまくって、自らの寿命を縮めている。

でも、それが正解だと思うんだ、人として。

さっき書いたみたいに、自分の周りで起こっている出来事の全ては、きっと、あなたへの、君への、僕への演出だと思うから、マリオみたいに、そのボタンで、一度だけ、プカッと浮かび上がることができるんだよ。

きっと、たったそれだけでいい。
きっと、たった「それだけに過ぎない」でいい。

つまりは、他人に揺るがされた自分っていうのは、そんなにも長続きしないから、だからこそ、自分の中で、大きな大きな揺れを起こさないと、一時の演出に終わってしまうことになる。

いろんなものに影響を受けて、いろんなものから刺激を受けて、常に自分を変化させ続けるっていう生き方も、マリオが常にプカプカプカッと浮いているようでいて、とても気持ちいいだろうなぁと思う。

と、なぜ、自分の周りで巻き起こることが、演出やなんて言おうと思うに至ったのかというと、自分の好きなことをしている人たちの、目が表情が姿勢が、あまりにも迫力があり過ぎて、その迫力に気圧され、問答無用にそう思わされてしまったというわけ。

自分の作ったものを食べてくだせえ。
自分の作った歌を聴いてくだせえ。
自分の書いた文を読んでくだせえ。

自分の生き様を貫いている人たちの、目が表情が姿勢が、共通して、鬼気迫るほどに迫力のあるものだということを、この歳になって、知った。

その瞬間になるまでは、とてもとても穏やかな凪のような風情でいらっしゃるのに対して、自分の好きなことに情熱を注ぐ瞬間に、これまでの凪が嘘のように、近くにいる人の全てを巻き込む嵐と化す。

そんな姿を見ていると、自分の内から生まれる熱情の、なんたる計り知れないものかと、思わされたわけです。

できれば僕も、そんな人たちと同じように、自分の内から発せられる熱量で、いつでもどこでも何をしていても、ポカポカしていたいと、演出では済まされないような生き方を望んでしまうのです。

なので、ひとつ、その手に据えているコントローラーのボタンを押すのをやめてみて、あなたが、君が、僕が、それでも尚、プカプカと浮かび続けていられるのか、それとも下へ下へと沈んで行くのか、自分のことを観察してみるのもいいかも知れない。

自分の中に蠢く想いが強ければ、きっと浮かび続けることに、ボタンを押す必要なんて、ない。
あなたの、君の、僕の熱量は、どれくらいのものだろうか。

ちなみにちなみにの話で恐縮ですが、そのまま下へ下へと沈んで行ったとしても、何ひとつ諦めることはない。
スーパーマリオブラザーズをやったことのある人ならわかると思うけれど、水中のステージで、ボタンの連打を諦めて下へ沈み地に足をつけ歩いて移動するマリオ。

浮遊することを放棄し、水中ステージであるということをも放棄し、守るもののなくなったマリオは、せかせかとボタンを連打し浮かぼう浮かぼうとするマリオよりも、何倍も凛とした表情に見えるもんだから、人生おもしろい。