手紙って、何でこんなにも、チャーミングで素敵なんだ。

想いを綴るっていうことは、何でこんなにも、可憐で清々しい気持ちになるんだ。

ああ、手紙を書きたい。
手紙、書いて、投函して、想いを届けたい。

そうだそうだ、想いを伝えることに、便利さや手軽さや素早さなんて、ほんとは不要なんだな。

相手に伝えるって行為は、会って目を見て伝えることと、じっくりと想いを熟成させて伝える手紙、だけで充分なはずなんだ、きっと。

自分も含め、現代人よ、とても貴重な行為を置き去りにしてしまったね。
そして、とても貴重な手段を失ってしまったね。

自分の気持ちを自分の言葉と自分の表現で、相手に届けられる、心のこもった伝達手段。
それでいて、見栄や嘘、建前や強がりも、しっかりと盛り込める、心のこもった伝達手段。

総じてそれを、チャーミングな表現手段と呼ぼうじゃないか。

嗚呼、手紙、書きたい。


三島由紀夫レター教室 (ちくま文庫)
三島 由紀夫
筑摩書房
売り上げランキング: 14,935

5人の登場人物がやり取りする手紙のみで表現された異色の小説。
『レター教室』という題名の示すとおり、それぞれの手紙は「借金の申し込み」「身の上相談の手紙」「病人へのお見舞い状」などタイトルがつけられ文例としても使えるようになっている。
5人の書き手による違いはもとより、社交的な手紙から歯に衣着せぬ悪口の手紙まで各人が書き分けるスタイルは実にさまざまである。
中には「英文の手紙を書くコツ」などのように手紙の中で手紙の書き方を指南するという凝った仕掛けを施されたものもある。
ストーリーは登場人物たちの繰り広げるドタバタ喜劇風の人間模様で、はじめはあっさりしていた人間関係が、恋愛、嫉妬、裏切りなどさまざまな感情によって複雑に絡み合っていく。
作者は交錯する感情の中に人間心理の機微を描き出し、手紙という表現手段を用いることで人が常に他者との相対関係にあることを浮き彫りにしている。

その昔、芸術家を志望しているある人と何気ない話をしていたとき、ふと三島由紀夫の話になって、このレター教室の話が出た。

そういや三島由紀夫の作品の中に、三島由紀夫レター教室っていう、彼からは想像もつかないような、一風変わった面白い作品があるの、読んだことある?って。

僕は、いや、ないよ、って。

あれからどれくらいの月日が経っただろうか、この三島由紀夫レター教室を手に取ることになって、読んでみて、ふふふ、あの時、あの人に言われた直後にこれを読んでいれば、もっともっと早くにこの、名作に触れることができたのになって、ちょっと悔しくもあり、ただ、これだけ待たせてこの作品を味わえたことに、自分の中だけで、勝手な優越感を覚えてみたり。

それにしてもこの作品、読み終わって、完璧に打ちのめされてしまった。

手紙という存在の大きさを知らしめる偉大さ。
作品の構成。
文字で笑いを起こさせる破壊力。
そして何より、ユーモア。

本作を通じて、改めて、手紙というものが、気持ちや感情を伝えるのに成し得る凄さを体感した。
(この体感というのが、本作のすごいところで、物語を読んでいるというよりも、他人様のプライベートを覗いてるような気分に浸れるところが、尚良い)

現代では、伝えるという行為が、とても便利になって、手軽になって、スピーディーになってしまっていると思う。なり過ぎたといっても、過言じゃないかも。

その点に、多分の良さは、あるのはあるだろう。
何よりも、伝えることに対しての、タイムラグがないので、思ったこと、感じたこと、見たこと、聞いたこと、それらの全てを、即座に誰かに伝えて、自分の気持ちを刹那に消化してしまえるのだろう。

その、タイムラグというものが、善いものか悪いものかは、語ると長くなってしまうので割愛するけれど。
(ほんとはそのタイムラグこそが、何かを伝えるという行為の醍醐味であると信じてやまない)

例えば、パソコンのE-メールなんかは、絵文字なんかがなく(使っても顔文字くらいのものだろうか)、また、送ってから、いつ相手が開封するか分からないといった、きちんとしたタイムラグがあって、それで、返信を待つ楽しみも、手紙ほどではないにせよ、あるのはある。

しかし、携帯電話のメールときたら、いただけない。
最近では、メールから派生して、もっともっとコミュニティツールとして活用されているサービスもある。

こういったものには、ふんだんに絵文字が用意されていたり、スタンプと呼ばれるものが提供されたりと、すごく便利になってきてはいるものの、こういった、メーカー側が用意したものを、利用者全員が同じものを使い、それで「伝える行為を短縮したり」しているのを見ると、少し悲しくなる。

「おはよう」
のスタンプが用意されていれば、おはようを送るわけじゃなくて、スタンプの送信ボタンをポチッと押すことになる。

これが、おはようか?

「ありがとう」
を送りたいときにでも、「Thank You」と書かれた、可愛らしいスタンプを送ることになる。

これが、ありがとうか?

ニッコリ笑っている絵文字や、涙を流している絵文字、本来であれば、この絵文字の感情を、自分自身が言葉を使って、その微妙なニュアンスを伝えるべきところを、その想いを、汎用的な道具に代弁させている。

なんとも、もったいない。

頭の堅い人間だって思われるかも知れないけれど、でも、若い女子たちがよく、自分たちにしか分からないような、特殊な文字を使ってメールのやり取りをしたりする。

こういうのは、めちゃくちゃ素晴らしいと思う。

道具を使って、自分たちの工夫とか、自分たちにしか分からない世界観を作ったり、こういうの、すごい好きだわ。
もともと用意されていて、はい、あなたたちこれ使ってくださいと言われた絵文字やスタンプを使うことよりも、はるかに優れていると思う。

結局、何にしても、現代の人は、どんな行為も便利に手軽に気軽にしようとし過ぎるきらいがある。

近年の食生活においては、清涼飲料水、スナック、白米とかジャンクフードとか、摂取すると、単糖類のグルコースになるスピードがとても早く、血糖値がすぐに上がると同時に、インシュリンの急激な分泌を促してしまうらしく、食べるものにおいても、体内での反応においても、近ごろの人たちは、お早いのがお好みのようで。

もう、答えじみたことを、言ってしまおう。

人の感情って、一枚きりでできているんじゃなくて、本音と建前があったり、強がりと弱さがあったり、見栄や卑下があったりと、何枚も何枚も、複雑にミルフィーユ状になっていると思うんだ。

その、表層を、咄嗟に伝えるのが、メール、なんだと思う。

でも、それじゃ、誤解だってまねくだろうし、本当に思ってることを伝えきれないだろうし、ほんとの意味での気持ちのぶつけ合いになっていないと思う。

え?
別に、ほんとの意味での気持ちのぶつけ合いなんて、求めてないって?

まぁまぁ、そうおっしゃらずに。
面白いことなき世に、ありきたりな毎日を、ただただ過ごすくらいなら、自分の底の底に眠る感情と向き合って、手紙などしたためてみること、おすすめします。

言葉は素晴らしいですぜ。
本格的に自分のこと、見栄はってカッコつけられたり、必要以上に悲劇のヒロインになれたり、一世一代の名文句を作り上げてみたり。

手紙の中では、あなたが主役です。
そして、プロデューサーも、あなたです。

日頃、携帯電話の予測変換の文字と、絵文字やスタンプで、気持ちを伝えあっている諸君。
携帯電話には用意されていない感情を、少しの時間と少しの手間を使って、大切な人に、伝えてみないか。