今、僕たちが、何が恵まれているかを考えるとき、世の中に物が溢れかえって、どんなものでも手に入れようと思えば、それなりに取り揃えた生活ができること、じゃなくて、飽食の時代をとうの昔に迎えて、食べようと思えば腹いっぱい食べられて、むしろ、多いから残す、嫌いなものだから残すといった具合に、食にも不自由しなくて済むこと、じゃなくて、何が恵まれているかを考えるとき、それは、

『可能性の多さ』

なんだと思う。

何かを成し遂げられる可能性、何かに挑戦する可能性、何かを変えられる可能性、誰かと想い合える可能性、誰かに打ち勝てる可能性、喜びを手に入れられる可能性、楽しめる可能性、笑える可能性、それら全ての可能性が、今の僕らは、はるかに恵まれている。

誰と比べて恵まれているかって?

今日の僕らは、昨日の人たちよりも恵まれていて、昨日の人たちは、一昨日の人たちよりも恵まれている。

誤解を怖れずに書くならば、今の僕たちは、昔の人たちよりも、はるかにずっと恵まれていて、はるかにずっと可能性に満ちている。

ただしそれは、心の問題じゃなくて、物質や環境や時代において、規制や統制や弾圧の量において。

路傍の石を初めて読んで、僕たちが、いかにその『可能性の多さ』に気づかずに、なんの可能性をも意識せず、その中でいて、足りないものや制限されるものに、グチグチと不満ばかり漏らし、どれだけ、可能性というものに、軟弱に向き合ってしまっているかを思い知らされた。


路傍の石 (新潮文庫)
路傍の石 (新潮文庫)
posted with amazlet at 13.07.06
山本 有三
新潮社
売り上げランキング: 19,365

極貧の家に生れた愛川吾一は、貧しさゆえに幼くして奉公に出される。やがて母親の死を期に、ただ一人上京した彼は、苦労の末、見習いを経て文選工となってゆく。厳しい境遇におかれながらも純真さを失わず、経済的にも精神的にも自立した人間になろうと努力する吾一少年のひたむきな姿。本書には、主人公吾一の青年期を躍動的に描いた六章を“路傍の石・付録"として併せ収める。

ザ・ハイロウズの『十四才』という歌の歌詞に出てくる、
流れ星か 路傍の石か

というフレーズが、昔っから気になっていて、また、本作が有名な作品だということも知っていたため、ようやく手に取り読む。
甲本ヒロトが綴る歌詞の意味を知ってみたくて、という意気込みで読んだわけだが、あまりの衝撃的な内容に、昔の時代と今の時代、昔の人々と今の人々、そして、自分のこと、深く考えさせられた。

主人公、吾一は、子どもだ。
子どもなのに、こんなにも貧しさは、彼を縛りつけるのか。
子どもなのに、こんなにも大人たちの身勝手さは、彼を打ちのめすのか。
子どもなのに、社会や時代の牙は、彼を追いかけ回そうとするのか。
それでも、なぜに、彼は、前へ前へと歩いていけるんだ。

今の子どもたち、少年たち、青年たち、大人たち、老人たちが、恵まれていることを、悪くは思わない。むしろ、とてもいいことだと思う。

昔の人たちが、前を向いて歩いてきてくれたからこそ、こうやって何不自由なく、便利な世の中に身を置いて暮らすことができる。
だから、それを、昔の人たちの時代を見て、悪く思う必要はなくって、むしろ、感謝を込めて胸はって、その便利さや恵まれた時代を誇るべきだって、そう思う。

不幸自慢は、何も生まないって、知ってるから。

でも僕が、本書を通じて、一番感じたこと、それは、

僕たちは恵まれた末にアホみたいになってしまって、自分たちの周りに溢れかえってる可能性の数々にさえ気づかず、ヘラヘラと生きていることに、自分自身、腹が立った。

これだけの可能性を身にまとった、麗しい身分であるにも関わらず、できないことに理由をつけたり、やらないことを美化したりして、とても心がみすぼらしいことを露呈して生きているってことに、腹が立った。

って、可能性って書くと、大げさに聞こえる。
大げさなことを言ってるんじゃないんだよね。

やろうって思ったこと、それを楽しんで、思う存分楽しみまくったり、やりたいって思ったこと、それを悔いの残らないように、やってみたよって誇れるくらいに楽しんでみたり、どんな小さなことでもいいんだな。

だって、やりたいって思ったことを、やってみた時点で、もう、達成なんやもんね。

ただ、吾一の姿を見ていると、自分の信念を曲げずに、どこまでも貪欲に、どこまでも正直に、どこまでも真っ直ぐ歩む姿に、自分では成り得ない、筋の通った雄姿を見せつけられてしまう。

そしてその果てには、可能性が少ないから、恵まれていないから、だから人はハングリーになれるのでは?という、ある種の、現代に対する欠漏感を、同時に感じてしまう。

それは、ある意味で、とても正しいことのような気がして、怖い。
だって僕らは、もう、仮想的にしか、ハングリーになれやしないんじゃないかって思ってしまうから。

だから、僕は、それを強く打ち消すように、ある思いを胸に抱いている。

ハングリーになれない、ハングリーになることができない時代に生まれた、そのコンプレックスが強烈に詰まった表現に対する貪欲さ。

これを、どこまでも深く、信じている。

そして何より、官憲の干渉により本書は中絶、未完に終わってしまっている。その時代のリアルさが、本書の中には、正しく歪に挿し込まれている。

その事実を、山本有三が言葉にしている部分で、いきなり、現代と当時とが瞬時にリンクし、昭和の鬱蒼とした闇の部分から、いきなり胸倉を掴まれて、とても息が苦しくなった。

道路も通信も何もかもが整備された現代、もう、道端に石ころは、落ちていないのかもしれない。
でも、時代に対する疑問符は、消えることはない。

こんなこと言うと、吾一に怒られるかもしれない。
でも、僕は、温室に置かれた石ころにはなりたくないから、自分の足で、今日も路傍へと出ていくよ。