人は、疑問を持たなくなってしまったら、終わりだと思う。
人は、持った疑問をやり過ごせるようになってしまったら、終わりだと思う。
そして、それをやり過ごすことに、立派な言い訳をつけるようになってしまったら、完全に終わりだと思う。

社会とか政治とか生活とか、ここんところ、なんかバタバタあって、ちょっと真面目に書いてみようと思った。

20130705
どんな時代においても、きっと、人は、その時代の中での「常識」や「当たり前」が生む空気感の中で生きていて、その中で感じる「個人的な不平や不満」をその空気感の中で、「仕方ない」という言葉で黙ってやり過ごす。

時にはそれが、酒場での酒のあてになることも、時にはそれが、コミュニケーションをつなぐ会話や議題になったりする。

でもね、それが、「仕方ない」で本来済ませたらだめなことだった場合、ちゃんと疑問を感じないと、疑問を感じれないと、それはとても危険な状態なんだと思う。

それってまさに、俗にいう、茹でガエルの法則なんじゃないかなって。

2匹のカエルを、一方は熱湯に入れ、もう一方は緩やかに昇温する冷水に入れる。すると、前者は直ちに飛び跳ねて脱出、生存するのに対して、後者は水温の上昇を知覚できずに死亡してしまうという、あれ。

時代って、いったい誰が支配してるのか分からないけれど、きっと誰かが操っていて、僕らは少なくとも、操られた社会の中で、窮屈に息苦しく生きている。

で、そいつらは、とっても狡猾な奴らなので、先の法則のように、僕らが気づかないよう悟らないよう、陰でジワジワとその温度を上昇させていくんだ。

だから、僕らは、そこにちゃんと疑問を持って、そんな支配下から飛び出ないと、知らない間に死んでしまうことになる。

もちろん、命まで奪われることはないよ。
でもね、そんな薄汚れた連中に、自分の命綱を預けるのは、もう死んでるも同然だよ。

そんな時、僕はいつも、ザ・ブルーハーツの『チューインガムをかみながら』っていう曲のフレーズを思い浮かべる。

疑問符背中に背負って
僕は毒づいてやるんだ
大人の顔してる人に
僕は毒づいてやるんだ
チューインガムをかみながら
わがままな子供のように

昔は今よりも、もっともっと、時代の規制や統制が厳しかったもんだから、人は今よりも、もっともっと、疑ったり抗ったりしてきたんだと思う。一部の人たちが。

言論の自由もなければ、いつ終わるか分からない戦争に怯える日々を過ごしたり、生活はもっと貧しかったろうし、贅沢もできない。
取り巻くそんな状況に疑問を感じ、納得すまいと抗い、そうやって、今日の、一見すると波風のない時代へと、引っ張ってきてくれたんだと思う。

今はもう、昔と違うから、疑うこともないだろう?
今の時代は波風のない平和な時代だろう?

違うんだ。

狡猾な支配者たちの、支配の仕方が、とても巧妙になっているだけなんだ。

だから僕らは、陰湿にジワジワと、昇温されていることに気づかない。やがて死に至るまで、支配され続けることに気づかない。

そんで口を揃えて、

「何かを変えよったって無駄だよね」
「何も変わらないよね」
「このままでも別に大して問題ないし」

そんな諦めきったセリフで、事をやり過ごそうとする。
まるで、発奮する人間たちの方が、ぎこちなくて不器用で不格好で惨めでって見下すように、涼しげで無関心な表情を浮かべながら、諦めてる奴のほうがまるで賢いと言わんばかりに、逃げて逃げて逃げまくるんだ。

人々がそういうスタンスになるってことも、支配者たちは、織り込み済みなんだよ。プロデュース済みなんだよ。もう、何もかもが、支配者たちのシナリオ通りに、生きてしまってるんだよ。

僕はそんな風に、どこかの誰かさんに支配されたまま、生きて、そんで、死にたくなんてない。

そういう僕は、今の政治に、全く興味がない。

政党はマニフェストを掲げ、人々はマニフェストに期待を持ち、一票を投じ、なのに、政治家はマニフェストに人々が寄せた期待を裏切った。じゃあ僕らは、どこの誰に何を求めて、一票を投じればいいのか、分からなくなった。

同じような顔をした、おっちゃんやおばちゃんたちが、嘘をついて、政を操る。

僕が政治に興味を失ってしまった決定的な理由は、もうひとつ。

政治家が理想を語りやがらないもんだから、政治家を通して、人々は理想の未来を見ることができない。
だから、政治家の「悪い部分」「ダメな部分」を見て、ネガティブな理由を持って、「悪くない政党」に投票しようとする。

そんなことしてたら、理想に向かうどころか、何もかもが劣化してしまうだろう。

「悪くない政党」が政権を握り、でもまた何か「悪いこと」をして、じゃあ次は、「悪くない政党よりかはマシな次の悪くない政党」に期待を向ける。そんな循環で、果たしていいのだろうか?いいわけが、ない。

だからといって、僕は、一票を投じることを、放棄しない。

昔の人たちが、思いを込めて勝ち取ってきた、一票を投じる権利を、無駄にしたくないのと、政治になんて興味がないんじゃ!ってことを、その思いを全力で込めて、一票を投じるようにしてる。

誰の名前を書くかなんて、興味がないし、白紙だっていい、前田敦子って書いてやろうかとさえ思う。
参加もせずに、文句や批判や非難をするような、卑怯な人間には、なりたくないから。

爆笑問題の太田光(尊敬と畏怖の念を込めて呼び捨てします。中田さん、使わせていただきます、この姿勢)が、こんなことを言っていた。

司馬遼太郎の小説を読むと、明治維新のころって面白かっただろうな、と思うんです。ただ同時に、この時代に負けたくないっていう気持ちもあって。僕は、これまでのどの時代よりも面白い時代に生きたいし、未来の人から「太田の生きていた時代は面白かっただろうね」と言われたい。そんな過去や未来に対する対抗心があります。

そう、冒頭で、時代は誰かに支配されてるって書いたけれども、僕たち人間は、そんなにバカじゃない。実は、誰かに支配されるほど、愚かじゃない。そんなに僕たちは、腐りきっていない。

だって、時代は、いつだって、人々が作るから。

従うことに、耳障りのいい理屈をつけて、自分の本音を丸めこむなよ、人間。
他人が作った常識を押し付けられて、「それが生きることだよ」なんて、得意げに語るなよ、人間。
理不尽なことを飲み込むことが大人だなんて、無様な勘違いを、さも当たり前のように語るなよ、人間。

君は地に足をつけているんだよ。
宙に浮いてるんじゃない。
だから、自分の足で、地面は蹴り上げられる。

君の理想をしっかりと持って、君の理想へと高く飛ぼう。