例えば林檎を強く握ってみる。

力の強い人間であれば、いとも容易く林檎をその力で握りつぶせることを、自身のその強い力加減を持って、知っている。
しかし、力の弱いに人間は、林檎を砕くことさえできない力ゆえに、どこまで握れば林檎というものが、砕けてしまうのかを、知らない。

林檎の場合は、静物。

これがいざ、こちらに向かってくる物、例えばそれが人間だとするならば、こちらの意図しないように、どんどんどんどん動いてくる。
自分という人間の心の中や視界の中、感情の中に、どんどん侵攻してくる。

人はこれらの侵攻に対しての対処を、二通り持っているような気がする。
ひとつめは、受け入れること。そして、もうひとつは、

攻撃。

強い者が人を挫くよりも、弱き者が防衛本能の赴くままキバを剥く攻撃の方が、剣先は鋭いんじゃないだろうか。

暗渠の宿 (新潮文庫)
暗渠の宿 (新潮文庫)
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西村 賢太
新潮社
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貧困に喘ぎ、暴言をまき散らし、女性のぬくもりを求め街を彷徨えば手酷く裏切られる。屈辱にまみれた小心を、酒の力で奮い立たせても、またやり場ない怒りに身を焼かれるばかり。路上に果てた大正期の小説家・藤澤清造に熱烈に傾倒し、破滅のふちで喘ぐ男の内面を、異様な迫力で描く劇薬のような私小説二篇。デビュー作「けがれなき酒のへど」を併録した野間文芸新人賞受賞作。


純文学に傾倒していた自分のような人間からすると、こういう口調で語られる、いわゆる『私小説』とやらに、めっぽう弱い。
町田康氏の『夫婦茶碗』を初めて読んだときにも、同様の秘部を突かれるような心持ちになった。

そして、本作。

なんだろう、この徹底的に自分自身を卑下したくなる様への共鳴は。
社会に出て、他者と交わらねばならぬ立場上、あっけらかんに見せたり、道化を演じてみたりはするが、根っこの根っこに、未来永劫に逃れ得ぬ劣等感やら自虐性やら排他性やらが蔓延っているのは、なんでなんだろう。

と考えてみるに、自分を卑下する人間という奴は、もっぱらそれは私自身なのだけれども、卑下し、また、卑下を公表することで、いざ大敗したときや、無様に蹴躓いたときなどに、他者の自分に対する視線を、当初に卑下しておいた、低い位置まで落としやることで、その情けなさやちっぽけさを、薄めようと企んでいるんじゃないだろうか、と。

欺瞞。

そう、他者からの評価や批評などに、偽りの要素を垂らすべく、先の先から、自己演出を、本来の自分像よりも、落ち度のあるように見せ示しておき、そうすることで、他者を欺く。

そう、解釈している。

本作中でも、そういった、湿った自己評価の雰囲気が根底に漂い、そこに自分を据え置き読み進めることで、とても居心地のよい世界観に浸ることができる。
(いわゆる、勉強もできてスポーツもできて異性にもモテて、といった類の人たちからすると、むしろ居心地悪くて、とても浸れないかも知れないが)

そうやって、自己を自身で卑下したあとに、元の自分像にひっそりと戻してやるためには、これが必要になったりもする。

酒。

「ぷはぁ〜」なんて酒を呑んでいるときには、体内から『卑下臭』を追いやっているんじゃなかろうかというくらい、自分に返れる気がする。それぐらい自分のことを慰めてあげられる。

そんなもんだから、陽気な酒より、陰気な酒のほうが、よっぽど旨い。ひとりぼっちなら、尚いい。

そうやって、卑屈な生き様をしていると、自分に自信なんて持てなくて(と思いきや、心の奥底では、案外と薄汚れたプライドがうず高くそびえ立っていたりもするが)、そうなってくると、自分の薄っぺらく、か弱いグローブに、誰かがボールなど放ってくるとなると、それはもう、受け止めるのではなく、攻撃して弾く。挫く。砕く。

本作中で最も共感できた部分が、交際相手に対して、さも自分が支配しているかのように、ぞんざいな態度を取りながらも、心のどこかで、こんな自分のことなんか、やがてはフイと捨てやがるんじゃないだろうか?という疑心に怯え、それでも尚、その攻撃の手を止めることはなく、相手を打つ。

作中の、
それでも別れないところを見ると、私は内心の自信がいよいよ深まり、いっそどこまでやればこの女は逃げ出すのか、それは本当に逃げられてしまったら大いに困るが、そうならない為にもギリギリの臨界点と云うのを把握しておきたい。

というフレーズに、恐ろしいほどに共鳴してしまった。

私自身は、さらにさらに小者の器を携えた人間なので、交際相手に、ぞんざいな態度や、あからさまに攻撃に出たりは、とてもじゃないがやった試しがないが、自分への忠誠心や、独占、支配、束縛、そういった類のものを、見定めてみたりするときなど多く、そう、安心を欲しさに見定めるという行為を繰り返してしまうのだが、そうやって、いわゆるその『臨界点』というのを、率先して探ろうとすることは、ある。大いに、ある。

退廃的な様が、人間の感情の奥底には、つきものだ。
純文学はそこを、恥ずかしがるな恥ずかしがるなと、見つめ直させてくれる。

自分の内面と対話するには、うってつけの一冊なんじゃないだろうか。

話は変わるが、重々しく綴られる文体の私小説では、少しばかり時代を遡って読み進めてしまう癖があるが、しかしそこは現代、出てくる単語に現代の流行の単語などが出てくると、例えば、ハリーポッターやイメクラなど、作中でそういうものに出くわすときの、時代をふらつく感じが、個人的には、嫌いじゃない、のである。