大阪モダンディスコ

大阪のモノ書きでありWeb屋であり広告屋。 ロクデモナイ売文稼業家としてメシを食っていける日を夢から現実に変えるべく、うぬぼれ一本で今日もくだらん文字を書き続ける。

そんな世界は自分と縁のない場所に広がっていると思い過ぎてやしないだろうか。-書評-『コックサッカーブルース』

ミステリーとエロスが交錯する世界。
この世界には、ミステリーが溢れているのか、それとも、この世界には、エロスが溢れているのか。

村上龍の小説を読むと、いつも思う。
こんな世界が本当にこの世にあるのだろうか。でも、きっと本当にそれはどこかにあって、でも、自分がそのどこかに行っていないだけで、触れていないだけで、体験していないだけで、きっと今夜も世界のどこか、いや、日本のどこかでは、当たり前のようにこんな世界が広がっているんだろうな、と。

自分にとっての非日常を、日常として生きている人たちも、きっといるんだろう。
極端な話、今この時間、この国のどこか、例えば路地裏のマンションの一室で、こめかみに拳銃を突きつけられている人だっているかも知れない。
それは、今この時間、ついさっき出会ったばかりの男女が、どこかのホテルの一室で、汗ダクになりながらセックスしていることだって、当然のようにあり得るのと同じ。

そんな世界は自分と縁のない場所に広がっていると思い過ぎてやしないだろうか。
自分はそんな世界に足を踏み入れることがないと過信し過ぎてやしないだろうか。

例えば、ニュースで報じられる事件で、自分の住んでいる町のすぐ近く、馴染みの場所で凶悪犯罪が起こったとする。
そのニュースを見て、一瞬だけ、そんな世界と自分の世界とをリンクさせようと、人間の感情は試みてみる。
そうして、ゾッ、と感じる。
でもまたすぐに、そんな世界をどこか遠く遠く、自分とは縁のない世界へと追いやってしまう。

果たして、そうだろうか。
もしかしたら、自分のすぐそばに、そんな世界は広がっているのかも知れない。
逃げようとしても、あちら側からご丁寧に、巻き込みにやってくるのかも知れない。

村上龍を読むと、いつもそんな気にさせられる。


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そろそろ人間としての型をぶち破りたいと渇望している人にオススメな一冊。-書評-『テースト・オブ・苦虫2』

年齢を重ねたり、成功を手にしたりし始めると、人は贅沢な顔面になっていくわなあ。
顔面に無駄に肉を備え始めたり、腹がボテチンと出始めたり、むやみやたらと、肌の色が浅黒くなったり。
ほんでやな、交流する人々も、俗にいう「偉いさん」とか呼ばれる人ばかりに偏り、善人のフリをしているクセに、その実、裏ではしっかりと悪巧みをしながら、着々と至福を肥やし利益を貪る。

そんなイメージ、ありまへんか?
社会に出てみると、ものの見事にそんなイメージの人たちが多く、社会で人と接してみると、ものの見事にそんなイメージの人ばかりで、閉口を通り越して、口をミシンで縫いたくもなる。

しかししかし、世の中のキッズたちよ、安心したまえ、何も世の中、そんな腰抜けのような大人ばかりじゃないぞ。年齢を重ねようが、成功を手にしようが、ちゃんと美しくも腐った魂を捨てずにいられる、カップラーメンやスナック菓子を愛せる、冬でも路上で缶ビールが飲める、パンクロックのライブに行けば、キッズよりも激しいモッシュができる、そして、周りからして、愛さずにはいられないような大人が、希少なれど、いるものだ。

もしかすると、着々と至福を肥やし利益を貪っているような人たちには、余裕がないのかも知れない。
カップラーメンやスナック菓子を愛しているような、キラキラ輝く大人たちには、余裕があるのかも知れない。

その実、年齢を重ねたり、成功を手にし始めてしまうと、何も変わらないというわけにはいかない。生き方だって、金の使い方だって、交友関係だって、見た目だって、絶対に変わって行くもの。
だけど、余裕を持った、輝く大人たちは、そういった姿、様相を表に出さず、自分をしっかりと演出しながら、自分の思う生き方、要するに、他人に媚びた姿を曝け出しながら、ヨダレを垂らしながら利益を貪るような腰抜けのような姿は見せず、どこまでも、自分の生き様に応じた自分をセルフプロデュースできているのかも知れない。

社会で聞こえる八割近くの会話が、同じようなことを言っている。
かと言って、社会は決して、同じようなことばかりで八割近くを埋め尽くされているわけではない。

社会に蔓延る見え透いた流れに飲まれてしまえば、結論、人としての旨みが削がれて行くということだ。

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家族という小さな空間の中で充満する、介護という大きな心の問題をひも解いてくれる。-書評-『スクラップ・アンド・ビルド』

日本の近い将来を考えるとき、介護という言葉がすぐに頭に思い浮かぶ。
自分の遠くない将来を考えるとき、老いという言葉が頭をよぎる。

人は長生きというものを選んだ瞬間から、介護という義務と責任も同時に選んだんだと思う。
そして日本は高齢化社会を向かえ、高齢化社会を加速させ、高齢者の国になる。
老人が老人を介護する世界、老人が老人の送り迎えをし、老人が老人を頼りにする時代。

人は誰だって、今のことしか考えたがらないから、いくら将来の備えをと思っていたって、いざ自分が介護をされる立場になったときのことなんて、鮮明にイメージできる人なんているわけがない。
年金の問題や税金の問題、介護施設の問題や介護の働き手の問題やら、たくさんの問題は山積みになっていて、それらに対する対策や対応が求められているという現状は、時事の情報やニュースを見ていれば誰だって知っていると思う。

でも、介護について一番思うのは、心の問題。

今まで当たり前にできていたことができなくなってしまう老い、普通にできたことを誰かに頼らねばならなくなってしまうという恐怖、それを申し訳ないと感じ、それを恥ずかしいと感じ、それまで自由だった四肢が、不自由な四肢へと衰えてしまう不安、心はどこへ向かってしまうのだろうか、心はどこを向けばいいのだろうか。

生きていればなんとかなるさ。やる気があればなんとかなるさ。頑張ればなんとかなるさ。
若い頃に聞きなれた言葉、若い頃に言いなれた言葉、若い頃に実際にそうやってみて、なんとかなってきた日々、なんとかできた日々。

老いが来れば、きっと、そんな言葉は当てはまらない。

老いてまで生きたくないからと息巻いた若い頃、現実はそんなに甘くないんだ、死ぬことさえ選べないほど、身体は老いていく、死ぬ力さえひねり出せないほど、身体は老いていく。

そんな風に考えると、やっぱり、老いとは、身体の問題であり、心の問題でもあると思う。
老いを見つめる自分の心、老いを周りで見つめる家族の心。

世の中で今、数多語られている、介護の話には、心の問題が欠如している。
だからこそ、介護の世界で手垢に塗れるほど使い込まれている、「第二の豊かな暮らしを」とか「いつまでも笑顔溢れる生活を」とか、心の問題を置き去りにしたような、造花のような言葉には、違和感しか覚えないんだ。

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ツービート、こうして奇跡は誕生するのか。-書評-『浅草キッド』

笑いというのは、とにかく深い、芸だと思う。
人を笑わせるというのは、とても難しく、それだけに笑わせているほうの技量、器量、度量、熱量、それらは凄まじく、まさしく、正真正銘の芸だと思う。

下積み。
芸の世界はもちろんのこと、昔は下積みの期間や、下積みの時代、うだつが上がらなければ万年、下積み。
そういった下積みを経験するからこそ、貪欲さが生まれ、這い上がろうとし、芸の中で盗めるものは盗んでやろうという、のし上がるための狡猾さを学んで行くんだと思う。

一般社会では、どんどんと、下積みと呼ばれるような制度はなくなりつつあるように感じる。
それだけ、一般社会では、新しく登場する新人たちとの価値観のギャップに、人を育てるということを放棄し、住む世界を異にしてしまっているんだろうな。
だから、下積みを経験させて、這い上がらせるなんてことに、付き合う年長も少なくなるわけだ。

芸人。
芸人さんの世界は、とても特殊な世界なんだろうと思う。
又吉著『火花』でもあるように、金がなくても先輩は後輩に対して、どんな状況でも奢ることを常とし、後輩を飲みに誘ったものの、金がないときには、借金してでも金を作って、奢る。

今ではもう使い古されてしまったのだろうか、芸人さんといえば、飲む打つ買う、道楽の限りをつくす、なんとも夢のある世界で、芸事で一発当てたときの夢の大きさと、一発当てることの厳しさが体現されている。

芸の世界には、なんでこんなにも物語がついて回るのだろうか。
芸の世界に暮らさない、市井の人たちの生き様にも、物語はついて回っているのはもちろんだけれども、芸の世界には、なぜあれほどに物語りがついて回るのだろうか。

こう思う。
芸の世界に住まう人たちは、生きるという芸を生きながらにして演じているからなんだろうと。

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芸人の日々なんて、こんなもんかと、すごくいい意味で安心できた本作。-書評-『火花』

誤解を恐れずに言うならば、芸人の日々なんて、こんなもんかと、こんなに必死になって日々を芸人らしく生きているのかって、勝手に崇高なイメージを持っていたよ、勝手にその存在を崇拝していたよ、だから安心した、こんなもんかと、僕らと何ら変わらずにもがいているんじゃないかって、日々を賑やかにすることに必死になってもがいているんじゃないかって、そんな風に、僕たちと何ら変わらない姿が伝わってきて、安心した。

生きることにはお金が必要だ。お金を手にするためには、仕事が必要だ。仕事とは、誰かに求められること、誰かに必要とされること。それがどんな理由だっていい。
君にしかこの巨大プロジェクトのプロデュースは任せられないから、君が必要だというものでもいいだろう。アルバイトの某氏が飛んじゃったもんだから、急遽本日のフロアを任せられるのは、君しかいないからというものでもいいだろう。
足元の小石をポンッと蹴飛ばすことが、今君にしかできないから、だから君が必要だという理由だっていいだろう。

ともかく、必要とされることが必要で、不必要とされた時点で、社会からは存在が消されてしまう。
存在が消されたとしても、自分はここにしっかりと存在しているから、だから、その矛盾に心が痛んで、身動きができなくなってしまう、もしくは異常なまでに極端に暴れてしまう。

本日、微かな幸せを手にしました。半年後、その微かな幸せを、人知れず失いました。思い返せば、その半年間、その微かな幸せを守るために強がり、失う不安に苛まれ、すぐそばに存在していることを感じては安心し、誰かに奪われやしないかと怯える。
たとえばそんな、毎日。
そんな毎日が、ただあるだけ。
結局は、そんなことの繰り返しで、そりゃ歳とともに、感性も変化するだろうから、捉え方や感じ方は変わってくるものの、結局は、そんなことの繰り返しで、人の一生は形成されているんだろうと思う。

夢とはいったい、何だろうか。
必要とされるって、いったい何だろうか。
あの日見た火花は、飛び散って、今どこにあるのだろうか。

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生きるっていうことは、ここまで、人に成長を強いるものなのだろうか。-書評-『白い花と鳥たちの祈り』

今よりもずっと若い頃、僕たちはきっともっと繊細で、繊細でというのは、人間そのものの性質はもちろん変わっていないので、絶対的なそれが変わってしまったのではなく、どこかしらに諦めに似たような感情を抱くようになって、それを怠慢と呼ぶのか、成長と呼ぶのか、一つひとつのことに、いちいち反応をしなくなってしまった。

社会というシガラミの中で日々生きていても、それを崩そうとも壊そうともせず、それに対して不満や文句は吐くものの、心のどっかで、こんな風なことが、どうせずっと続いて行くんだろうなって、諦めてしまっている。
それを『大人になった』なんて自覚しながら、さも、抗わないこと、挑まないことこそが、大人、安定、器、などと高貴そうなレッテルを貼って、慢心している。

でも、違うよね。
今よりもずっと若い頃もそう、今だってそう、これからだってそう、毎日の密度、日々起こる出来事の密度、日々触れ合う人々との摩擦の密度なんてものは、変わっていない、変わるわけがない。
本来、日がな一日を、のほほん、何も起こりませんでしたなんて涼しい顔をして過ごせるわけがない、命がそうさせてくれるわけがない。

ただ、慣れはきっと、あると思う。
長く生きていれば、それだけ、ルーティーンで巻き起こることも多かろう、だからこそ、慣れはきっと、あると思う。
感受性にも慣れはあると思うから、同じ映画を二度観ても、もはや、一度目の感動を、二度目にも同じように味わうことは不可能なんだ。

じゃあどうするか?
今よりずっと若い頃の自分に尋ねてみるか? 今の自分に尋ねてみるか? 未来の自分に尋ねてみるか?

人は、自らが選んだ環境の中と、選ぶ権利さえなく存在させらた環境の中で、自分を上手く適応させながら、行ったりきたりしながら泳いで行く。

大人になるっていうことは、もしかしたら、自らが選んだ環境の中で、逃げも隠れもせず、胸を張って堂々と生きていくこと、その生き方に、覚悟を持って泳ぎ出すということなのかも知れない。

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もしかすると、朝、当たり前のように目覚めていることだって、奇奇怪怪なことなのかも知れない。-書評-『蛇を踏む』

もしかすると、朝、当たり前のように目覚めていることだって、奇奇怪怪なことなのかも知れない。

そう思いながら世界を見渡してみると、どこもかしこも、不可解なことだらけで、奇妙なことだらけで、第一、今こうして手に取っている十円玉でさえ、どこの誰の手を渡り歩いてきたかも分からないわけで、それはこの界隈に住まう人間の間を渡り歩いてきたわけではなく、果てしなく北のほうから、果てしなく南のほうまで、どこの誰だか分からない人の手を渡り歩いてきた、この十円玉、それを今手に取って眺めている。
こんなおかしな話があるだろうか。

人間の性質としてもし、昼行性のタイプと夜行性のタイプと、二種類が均等に、ほぼ均等に分かれているようなものに、予め設えてもらっていたなら、夜も動く夜も動く、人間の半分は夜も動く、ということで、夜の闇で行われている犯罪、例えば、空き巣とか強盗とか、人が寝静まった頃を見計らって企てられる犯罪というのは、激減するのかも知れないなあ、いや、でも、ダメか……。これまで昼に犯罪を犯していたタイプの人間も、夜行性のタイプに入ってしまったら、夜にでも犯罪を企てる企てる、ああそうか、なんとも奇奇怪怪だなあ。

蛇を踏む。

奇奇怪怪な世界に引きずり込まれそう。
それが、大きな違和感じゃなくて、小さな違和感だからこそ、余計に引きずり込まれそう。

ああ嫌だ、うちにも蛇が来たらどうしよう、ああ嫌だ。

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出会いと別れと変化、人はこの三つを繰り返して生きて行くんだろうな。-映画評-『ベイマックス』

生きていれば、出会いがあって、生きていれば、別れがあって、そのどちらも、自分という人間を変化させてくれる。

誰かと出会ったことで、一時的に歓喜することもあれば、生涯の変化を、その出会いがもたらせてくれることだってある。
誰かと別れることで、立ち直れないほどに心が崩壊することもあれば、誰かを失った悲しみから這い上がることで、それまでよりも、強い自分に変わって行くことだってある。

物語を観ていれば、物語を読んでいれば、物語を聞いていれば、そんな出会いや別れや変化が、話の展開にとても強弱をつけてくれて、ドラマチックにしてくれて、ロマンチックにしてくれる。
それがあるからこそ、物語の結末を知るまで、ずっとずっと没入していられる。ワクワクしながら。

じゃあ、物語以外だったら、どうだろうか?
現実の世界も、そんな風にあんな風な、出会いや別れや変化があるのだろうか?

ないから、物語に求めるの?
それとも、あるけど、僕らの触手は鈍感なだけ?

そんなことを、眠れない夜に考えてみては、僕らの物語は、どんどんと進んで行く。

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湿気のなかにズルズルと引き込まれていけば、そこでは、大人たちが持つ事情が飛び交う。-書評- 『真夏の犬』

脳内に思い返す昔の景色には、今ほど恵まれていない日本があって、セピア色した大阪があって、大量の排気ガスや、とても裕福とは呼べない身なりをした人々、便利さなどとはほど遠く、オモチャというよりも玩具で遊びながら、埃っぽい町中を走り回っている自分がいる。

本書を読んで、意外な事実に気づかされた。

それは、思い返す昔の景色には、当然のように子どもの僕たちが映っていて、子どもの視点や子どもの感性で持って、町を眺めて、人を眺めて、言葉を発して、そういった景色が懐かしく流れていくので、昔の景色には、子どものどこかしら酸っぱいような、青々しい香りしかしないものと思っていたけれど、その景色のなかにはきちんと大人たちも存在していて、大人たちの世界も存在していて、大人たちの事情もしっかりと存在していたんだということ。

子どもの時代は『当時』で、大人の時代は『現在』、というのは、自分の都合で、子どもの時代も大人の時代も『当時』として過ごした人なんてたくさんいるんだ、だから、当時も今も変わらず、大人たちは、大人たちで持ち合う事情を交し合い、大人にしか理解できない会話で、悟れない合図で、分かり合えない温度で、当時の景色のなかを、たくさんの事情を持って生きていたんだって、まるでカルチャーショックのように、本書を読んで気づかされた。

どうして、『当時』を思わせる物語というやつは、これほどまでに湿気が多い気がするのだろう。これは個人的な感覚だろうか、とても湿気が多く、ジトジトしている気がする。
それは決して悪い意味ではなく、『当時』を思い、想起しない限り、感じ得ない貴重な湿っぽさ。
裏を返せば、『今』の物語には、そういった湿っぽさは、全くと言っていいほど、感じられない。
それは、文学だけじゃない。音楽だってそうだ。テレビやラジオだってそうだ。ということは、『時代』がそうさせていたのかも知れない。いったいどういう作用で、そんな湿っぽさが生まれるんだろうか。

例にも漏れず、宮本輝の世界にも、同じ湿った気配が漂っている。
それは、一度触れると、ズルズルとその湿度に引き込まれるかのように、時代をトリップさせられる。

昭和とか、貧困とか、回顧とか、ノスタルジーとか、そういった単語では表すことのできない、湿気のなかに、ズルズルと引き込まれていく。

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逃げるか、闘うか、受け入れるか、そんな辛辣な選択を迫られることそのものが、あまりにも悲痛だ。-書評-『ヘヴン』

イジメというものは、無くならないものなのだろうか。

日本以外、世界中、先進国でも発展途上国でも、どこにでも万遍なくあるものだろうか。
そう言えば、動物園での餌やり体験などで、檻の外から餌を差し入れようとすると、獰猛な奴が前へ前へと競り出してきて、気の弱い奴は、奥へ引っ込められ、ひとつも餌を貰えないという光景を目にすることがある。
動物の世界にでも、やはりイジメはあるのだろうか。
子供だけの問題じゃない。社会に出てもイジメは存在する。
大の大人が、弱者をイジメる光景など、日常茶飯事だ。

なんでなんだ?楽しいこと、面白いこと、愉快なこと、痛快なことが、あまりにもなさ過ぎて、それの代用に、誰かをイジめて、それで快感を得たり、脳内をドーパミンで満たしたりしているのか?
そして、その行為に慣れ、特に快感もクソも感じなくなってしまった果ては、まるで習慣の如く、その行為を続けるだけなのか?

だとしたら、あまりにも乾いている。

子供たちに対して、「イジメに甘んじ続ける必要はない」と、逃げる手段を指南したとしても、社会というモンスターが敷いたレールから、それが例えイジメが原因で「逃げた」としても、結局は、社会的に弱者として扱われる。
そのレールからドロップアウトして、欠けてしまった学歴や社会的地位は、後々、誰がケアしてくれるのか。理由が理由だということで、その欠けを、豊かな気持ちで包んでくれる環境なんか、この世にあるのか。
ドロップアウトして別のレールを選んだとしても、大の大人が次のイジメを用意しているようなこの世の中に、安堵できる場所なんて、あるのか。

結局、社会というモンスターは、人としての、ある一定の暗黙のボーダーラインを用意してやがる。
そして、それを下回る人間を、弱者として位置付ける。
弱者の身には、いつ何時、何が起こってもしょうがない。
そのボーダーを下回る弱者だから、という理由だけで、その身に何が降りかかってくるかわからない。

そのボーダーラインの要素は、恐ろしく細かく、恐ろしく項目が多い。
貧困だってそう、障害だってそう、見た目も、腕力も、性格も、社会の適合性や、声、仕草、住んでいる場所、親、親戚、職業、何もかもがその要因になる。

だから、こう言ってしまうしかないのか。
「弱者は、自らが強くならねばならない。弱者の身を守ることができるのは、弱者である自分自身しかいない」

少なくとも僕はそうやって生きてきた。
その果てに僕は、だったらいつか、強者を潰してやりたいと、その思いを胸に生きてきた。

でもふと思う、それって、戦争やテロを起こす心理と同じじゃないかって……。


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今年の棚卸し

今年ももうすぐ終わる。

「一年、あっと言う間やなぁ」などと言ってる大人が大嫌いだったけれど、最近の口癖は、すっかり「一年、あっと言う間やなぁ」。こんな大人にはなりたくないと思っていた大人になってしまうのも、あっと言う間だった気がする。

ともかく今年は、自分の夢だった、物を書いて対価をもらうということが実現したので、なかなかに満足している。
来年は次の夢、物を書いて貰った対価で飯を食う。というところを捕まえに、船出しようと思う。

それはさておき、今年の棚卸し。

今年もいい音楽を聴いたり、いい本を読んだり、いいもんを食べたり、笑ったり泣いたり怒ったりと、退屈しない一年だったような気もするけれど、後半は、よく働いて働いて、精神的にも体力的にもクタクタになった。

今年一年、心の琴線に触れたものを、書いてみて、棚卸しとしてみよう。

20141223続きを読む

色、情景、匂い、温度、人間模様、人間とは豊かな生き物だ。-書評-『奇妙な昼さがり』

事実は小説より奇なり。
とはよく言うもんで、実際にそんな風に感じることは、しばしばある。

そう考えると、人間が生きているこの世界には、世に創り出されたショートショートの数よりも多く、まことに奇妙で、まことに珍妙で、ときにゾッとしたり、ときに痛快な気持ちにさせられたり、そんな物語が用意されているものなのだろうか。

答えは、イエスだと思う。そして、答えは、ノーだと思う。

この世界には、際限なく物語りが創り出されては、人間たちがそれらに一喜一憂しながら、生きる気力を失ってみたり、死ぬ決意を覆して歩き出したり、他人事のように言わせてもらうならば、そうやって日々、にぎやかに生きている。
街中でもそう、電車の中でもそう、職場でもそう、居酒屋でもそう、ふと周りの景色を見てみれば、そんなドラマの渦中にいるような人たちで、ごった返している。
きっとそれらドラマの数々は、到底、人間が筋書きを準備できるほどに、理路整然と整えられたものなんかじゃなくって、想像もしないタイミングで始まり、予想もつかないような終結を迎えるような、そんな大作ばかりなんだろうと思う。

でも、それをただ、指をくわえて眺めてばかりはいられない。
物書きは、それに対抗して、どんどんと新しい世界を創り出して行きたいと思う。
ただ生きているだけでにぎやかな、人間の日々の中にあって、そのにぎやかしのひとつに加えていただくべく、そんな奇想天外な物語を、創り出して行きたいと思う。

選択できぬまま、奇想天外に巻き込まれるのが、人間の日々なら。
選択して、好みの奇想天外に没入するのが、小説なら。
選択した好みの奇想天外を、奇想天外なかたちで裏切るのが、ショートショートだな。

だからこそ、答えは、イエスだと思うし、そして、答えは、ノーだとも思う。

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夜の闇の向こう側には、いったい何があるというのだろうか。-書評- 『アフターダーク』

夜には予定調和がない。

夜以外なら、視界に入る誰か、耳の中に言葉を放り込む誰か、歩くだけでも他人と肩がぶつかってしまうほどにこじんまりとした都会という世界、誰かのペースに引きずられ、誰かが作りだした理不尽なストーリーの中に、半ば無理矢理にでも片足を突っ込まされるために、自分の意志などなく、ただただ流されてしまう。

夜も同じ、流されてしまうんだけれど、自分の意志で流れていくイメージがあるんだ、夜には。

どうして夜には予定調和がないのだろうか。
それはきっと、太陽が昇っている間は、何が起ころうとも、やがて陽が沈んで、夜になることを疑わないけれど、夜になり、辺りが闇になり、真っ黒なはずの空がだんだんと月の光に、じんわりと染められていき、なんだか思っていたよりも青いなぁなんて感じ始め、そのうちに、深い夜の空の、どこか白々しいほどの色合いに、人は闇の中でも生きていけるのじゃあないだろうかと、意味のないことを思考に浮かべつつ、ふと思うんだ。

もう、二度と、朝なんて来ないんじゃないだろうか。

僕の世界でも、君の世界でも、夜に予定調和はない。
僕たちそれを知りながらも、そそくさと枕の中に思考を沈め、予定調和だらけの朝に向かうために、眠って眠って、その素晴らしき世界が広がる、いや、素晴らしき世界が蔓延る夜というものを、ショートカットして生きて行く。

たった一度きりでもいい。
もう一度だけ、あの感じ、あの、一生分の憂鬱や楽しみや切なさや悲しみが、恐ろしいまでの密度で圧縮されたような、そんな真っ暗で、薄っすら青くて、どこか白々しいほどの色合いに包まれ、朝のこない、永遠の夜を、もう一度だけ過ごしてみたい。

夜の闇の向こう側には、いったい何があるというのだろうか。

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皆様方、初期衝動はお持ちですか?-書評-『14歳掘

14歳。
一般的には、中学二年から三年の頃。
子供の感覚から、大人(びた)感覚に至るまでの過渡期。

あの頃、自分は何をしていただろうか。
ギターを弾いたり、ビートルズを聴いたり、フォークソングやブルースを聴いたり、ビジュアルロックを聴いたり、純文学に傾倒したり、吉本の二丁目のお笑いに傾倒したり、バスケットして、漫画読んで、妄想して妄想して、悩んだり、悩まなかったり、笑ったり、怒ったり、しゃべったり、黙ったり。

子供の人格形成なるものは、物心つく前、はるか幼い頃に形作られるそう。
じゃあ、大人の人格形成なるものは、いつ形作られるのだろうか。

そう考えると、この、14歳あたりなんじゃないだろうかと思う。

幼い頃に形作られる人格は、ある種、悲しい部分も多いだろう。
親の影響も多いにあるだろうし、家庭環境やら家庭の財政事情やら、住む場所の環境、つまりは、大人たちの傘の下、大人たちが作った世界の中で、ただただ従順させられる。
そうやって人格なるものが形成されるというのも、なんだか人間臭い。

じゃあ、14歳には、何が形成されるのだろうか。

自分は、何者にもなれる、という自由を信じ、世界中に存在するさまざまなものを、自分なりの価値観と、自分なりのアンテナと、自分なりの嗜好で、ちぎっては自分にくっつけ、ちぎっては自分にくっつけ、そうしてどんどんと新たな自分、つまりは大人の人格のベースを形成していくんじゃないだろうか。

根は幼き頃に、蕾は14歳に、そして、開花は、その後の自分の生き様次第。
そう思う。

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それは、好きなことを、好きなように、好きなだけやり続けることだった。-書評-『横山健 随感随筆編』

パンクロックを聴いた。

あの日の衝動は、今も変わらず、あの日の興奮も、何ひとつ変わらず、今も僕を突き動かしてくれる。

長いものには巻かれたくない。誰にも媚びたくない。愛想笑いもしたくない。権力に屈したくない。
この世の中、それを貫き通すことが、どれほど困難なことかは、身を持って知っているつもり。
だけど、疑問符が消えない限り、闘うことはやめない、心無い行為が蔓延る限り、闘うことはやめない。

そこで、考えた。
じゃあ、自分には、いったい、何ができるのだろうか、と。
自分が自分なりに納得して生きていくためには、いったい何をすべきか、と。

その答えは、もう出ている。
だから、あとは、やり続けるだけ。たとえ形を変えようとも、何度でもやり始め、やり続けるだけ。

横山健 随感随筆編
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何かを始めてしまえば、終わることなんてない、自分という存在が終わらなければ。-書評-『スプートニクの恋人』

多感。

それはとても、生きることに色が多すぎて、誰よりも多くを感じられるがゆえに、たとえ他人と同じものを見たとしても、そこからより多くの印象を受け取ることができて、そしてそれらに対して、より多くの思いを巡らせることができて、だからこそ、とても生き難い。

多くを感じられない人、多くを感じようとしない人からすると、多感な人がどんな思いを脳内、心、神経に巡らせているのかを察することはできない。
だからこそ、多くに思いを巡らせる人が、自分にとって然るべき沈黙を貫き通すときや、多くを思うがゆえに、言葉数を少なにしているときなどに、「考えがない人」などと、軽率なレッテルを貼られてしまうこともあって、なんとも生き難い。

そう。多感な人にとっては、物事の何もかもが、とにかく大袈裟なのだ。大袈裟にならずにいられない。
風が吹く。鼻先にそれを感じる。その瞬間、もう、過去の情景や、あの日あの時の思慮、回顧、罪と罰、未来にも再びこの風を感じることができるのだろうかという不安、明日の自分、今の自分、昨日の自分、そして、世界。

そんな大袈裟な自分が嫌になるときもあれど、たいていの場合は、好きだ。
どんな些細なことに対してでも、これほどまでに思いを巡らせられること、退屈しなくて済む、飽きずにいられる、賑やかでいい、騒々しくていい、だけども、とにかく生き難い。

恋心。

若かりし頃、それはなんて破滅と隣り合わせの感情だろうと思っていた。
密やかに、胸の奥に留めておくべき感情のような気がしたし、一旦それを外に解放してしまったが最後。取り返しのつかない事態へと発展していくのじゃないだろうかという恐怖と、何かが終わり、二度と自分の胸の密やかな部分に、帰ってこないんじゃないだろうかという恐怖。

あの頃の感情はいったん何だったんだろう。
なぜにあれほどまでに怖れて、それを解放することに怖れて、何かの帰結に怯えていたのだろう。

スプートニクの恋人。
多感と恋心。その二つテーマで持って、読了した。

スプートニクの恋人 (講談社文庫)
村上 春樹
講談社
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イケナイ欲望、つまりは正直な欲望に溺れて生きる人間の帰結。-書評-『笑ゥせぇるすまん 夢に追われる男』

欲望は、底なしで、青天井。下にも上にも、際限なし。

常識や倫理や理性というやつは、いつでも欲望を制御し、決め事や法律というやつにも、欲望は制御される。
人間同士の価値観の中で、欲望にストップをかけ、人間が作り出したルールの中で、欲望にストップをかける。

動物として考えてみれば、人間というやつは、自ずとストレスが溜まるように、仕組まれている。
欲望を満たす手段をどんどんと生み出しながら、欲望を押さえつけるルールもどんどんと作り上げていく。
まったく、愉快な生き物。

欲を押さえつけながら生きているから、ストレスも溜まり、フラストレーションも溜まり、果てに欲求不満、心のどこかから湧き出た、満たされることのない、身元引受人を失った消化不良の欲望は、やがて、ドロドロとした色となり、まるで下水管の中、家庭用排水とともに流された油が固まり、凝固してこびりついたラードのように、もう簡単には取れない取れない、除去できない、浄化できない、清浄できない、つまりは、スッキリできない。

ほら、目の前の欲望に手を伸ばして、触れた瞬間には、ビリビリと電気が流れるだとか、あまりの高熱にヤケドするだとか、おりこうさんな僕たちは、そういった制御装置を脳内に刷り込まれて、どんどんどんどんと、欲望に忠実ではなくなる。隠して隠して、隠蔽隠蔽。

でも、ほら、ドーン!

イケナイ欲望、つまりは、正直な欲望に従った人間、それは、社会やコミュニティーの中から、つまはじきにされるかも知れないけれど、どこかしら清々しい表情をしているじゃあ、ないの。

あれほどまでに、無垢な表情で生きるが良いか、目の周りに死相を漂わせながら、欲望を抑えて生きるが良いか、それを決めるのは、あなただし、溺れ生きるのも、溺れ死ぬのも、あなただし。

笑ゥせぇるすまん 夢に追われる男 (中公コミックスーリ)
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味気ないものも、笑いのスパイスと妄想のスパイスを振り掛ければ、こんなにも麗しくなるじゃあないか。-書評-『テースト・オブ・苦虫1』

あぐぐぐぐぐ、妄想が止まらない、目に映る景色の中から、妄想が連鎖して、気が狂いそうだ。
そう思えば、生きるということは、妄想の連続、妄想の連続、愚痴の連続、笑いの連続、何もかもを、笑いに昇華させてやれ、そうすれば、こんなにも同じことの連続の毎日を、自分のクレヨンで、色とりどりに落書きしまくれる、嗚呼、妄想は既にドラッグだ、一度味わえばやめることのできない、中毒性のある物質だ、あぐぐぐぐぐ。

ほら、目の前を歩く疲れきったサラリーマンのおっちゃん。
この人にもきっと、いろんな人生模様があって、いろんな事情を抱えて、今、こうして僕の目の前に、瀕死の表情で現れたわけで、それさえも、数多の妄想を膨らませてみれば、如何様の人間にも想像でき得る。

それだけでも美味なのに、そのおっちゃんがもし、僕に近寄ってきて、「あのぅ……、本町という駅は何処でしょうか?」などと道を尋ね、もし万が一、本町駅が、その場から徒歩三十秒くらいのところにあったとして、このおっちゃんは、ここまでせっかく辿り着いたのに、ゴール三十秒手前で、僕という人間に道を尋ね、独力で何かを成し遂げるというチャンスを無駄にしてしまったではないか、などと妄想すると、これはさらにゴージャスなディッシュに様変わりする、エピソード。

あかんあかん、人っていうものは、何故にこうも滑稽なのだ。
やたらめったら容姿やら身なりに気をつかっている癖に、歯にニラやら七味やらが付着していることには、何故に気づかないで生きれるのだ。
加齢臭をゴリゴリに漂わせて、電車に乗れば疎まれ、エレベーターに乗れば疎まれ、どこにいても疎まれるような身分のくせに、何故にこんなにも、会社の中では、我こそが神なりと言わんばかりに、偉そうに振舞えるのだ。
何故、電車には、ビックリするくらいに悪臭が漂う車両があるのだ。
こんなにも人間を滑稽にさせているのは、いったい、誰の仕業なのだ、誰の思惑なのだ、誰の企みなのだ。

嗚呼、生きていることは、笑いの連続だ。
味気ないものも、笑いのスパイスと妄想のスパイスを振り掛ければ、こんなにも麗しくなるじゃあないか。

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何気なく存在することこそ、失うまい、壊すまいと、包み込むように守らねばならない。-書評- 『ダンス・ダンス・ダンス』

生きることと死ぬことを色濃く意識するならば、何気ない日常というものが、とても特異にも感じられ、貴重にも感じられ、その何気なさを維持することが、どれほどに困難で、それはとても脆く儚く、未来になんの保証もされていない、まるで空想のような存在であることに気づく。

何気なさが、単なる焼き増しのように、無意味なものとして扱われることも多いのではないだろうか?
でも、何気なさって、たとえば、自然に目が覚めた朝だったり、そこに降り注ぐ朝日だったり、鳥の鳴き声、子どもたちの通学中の笑い声、雲、空、水、そういったものが形成する何気なさというものは、実は、とんでもなく繊細なバランスで保たれていて、どれかの均衡が少しでも狂うと、いとも簡単に崩れ去ってしまうようなものだと思う。

生まれて、物心ついたときから、そういった何気なさに包まれ過ぎていて、さも当たり前のように感じもするけれど、それは奇跡といっても過言じゃない。決して言い過ぎにはならない。だから、人間、それぞれが、退屈そうに持て余す何気ない日常というものは、人間、それぞれの奇跡たちということになる。

僕たち人間は、本来ならば、偶然手に入れたチャンスやら、何かのきっかけで舞い込んできたラッキーやら、そういった何かしらの特別を大切にするのではなく、ごくごく当たり前に、そう、何気なく存在することこそ、失うまい、壊すまいと、しっかりと抱きしめねばならないはずだ。

そして、その何気なさを一度手に入れたなら、決してそのつないだ手を離さないこと。

僕たちは、音楽が鳴り続ける限り、きちんとステップを踏んで踊り続ける必要がある。
そうやって舞い続ければ、やがて答えが現れて、霧が晴れたみたいに解放されることだろう。


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面白く生きるのではなくて、生きることは、そもそも面白い。-書評- 『永遠も半ばを過ぎて』

日常とはユーモアの連続だ。
何も、ユーモラスに生きる必要なんて、ない。
日常そのものが、ユーモアの連続だから。

目新しいことなんかしなくたって、無駄に高いお金を支払わなくたって、誰かに用意された刺激の中に埋没しなくたって、普通に生きていて、その中で、普通の自分を感じながら、日常の面白さを味わう。

生きること、風情、情緒、当たり前、普通、いなせ、粋、ただ生きる、ただ生きる。

些細な空想から、微細な妄想から、何かが狂い出して、その狂いこそが、日常の中の違和感になって、その違和感って、新鮮で、斬新で、知らない自分に出会えたり、知らない景色に出会えたり、あとは、いつもの自分を違う風に感じたり、いつもの景色が、見たこともない景色に感じたり、そうすれば、しめたもの、それが日常の面白さ。

ただし、とっても、マニアックに生きたいものだ。
自分が日々やっていることが、たとえ、他人から見て、くだらないものだとしても、そのことに対して、誇れはしないにせよ、マニアックに、誰よりも深く、誰よりも楽しんで、自分だけが独占する、そんなものにしていたい。

薄っぺらいのなんて、味気ないから。
薄っぺらいのなんて、しょうもないから。

他人に理解なんてされなくたっていいんだ、誰にも迷惑をかけなければ、別に。
他人に理解されることなんて、とても、しょうもないんだ。

そして、その、他人の理解を超えた珍妙な日々の中で、頬を赤らめるような出会いがあったり、自分にしか理解できない拘りで涙したり、誰の目にも触れない物語が発動したりする。

それを称して、生きるというならば、生きることは、特異で奇異で、それでいて、豪華な演出で設えられていると感じやしないだろうか。

たとえば、立ち飲みやの暖簾の向こうに、日常の風景を爆発させるほどに衝撃的な出来事が、待ち受けてるやもしれない。

永遠も半ばを過ぎて (文春文庫)
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著者

常盤英孝(ときわひでたか)

3分程度で読めるショートショートと呼ばれるショートストーリー書き。 あとは、エッセイやコンテンツライティングなどの物書き全般と、Webデザイン、チラシデザイン、広告、Webマーケティング、おしゃべりなどをやっています。




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