大阪モダンディスコ

大阪のモノ書きでありWeb屋であり広告屋。 ロクデモナイ売文稼業家としてメシを食っていける日を夢から現実に変えるべく、うぬぼれ一本で今日もくだらん文字を書き続ける。

人は、群像劇の中で、生きている。-書評-『ラッシュライフ』

群像劇について、深く考えてみる。すると、人間の全てが群像劇の主人公であることに気づく。

街ですれ違う人たちや、同じ電車の車両に乗り合わせた人たち。
その瞬間を切り取ってみれば、全く違う人生を歩んでいる人同士が、偶然にも同じ場面に出くわしている。
もうそれ自体が、群像劇。

もしかしたら、電車の中、隣に座るおっちゃん、居眠りこいて頭を垂れた。そのおっちゃんが、いつかどこかで、自分の人生に、大きな影響を与えるかも知れない。

あの日、受注確実とされていた仕事が失注となった背景に、もしかしたらそのおっちゃんが関係しているのかも知れないし、そのおっちゃんは、その向こうに座っているおばちゃんの企みで、失職させられたのかも知れない。
その失職に希望を失い、浴びるようにお酒をあおった結果、僕の肩にこうして今、頭を預けているのかも知れない。

子供の頃、レンタルビデオ屋と本屋が合体した施設の裏に自転車を止めて、本を読んでいたとき、ふと、自転車の前かごにポシェットを置き忘れてきたことを思い出し、取りに戻ったときには時すでに遅し、誰かに盗まれて、影も形もなくなっていた。
あのポシェットを盗んで行ったのは、向こうに座るおばちゃんだったのかも知れない。

買ってもらったばかりのポシェットだったから、悲しくて悲しくて、泣きながら警察署に飛び込んだ。
あの日、泣いている僕に、優しく応対してくれた警察官のおっちゃんに、近い未来、どこかで職務質問を受けるかも知れない。
職務質問されたその瞬間、僕はもしかしたら、どこかのだれかさんの、大切にしている何かを、特別な理由があって、盗んでしまっていて、その警察官のおっちゃんにそれが見つかり、何かしらの罪に問われるかも知れない。

考えだしたら、キリがない。何もかもが群像劇。大衆の場で、どこかの瞬間を切り取れば、それはもう、群像劇。

人は、群像劇の中で、生きている。


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ほら、またニヤけた。人間がまた、ニヤけた。-書評-『ドグラ・マグラ』

街で見かけた人が、ニヤけ顔をする。周りの人からすると、急にニヤけたその顔を見て、違和感を覚える。
当の本人は、周りの人たちに違和感を与えていることもつゆ知らず、ニヤけ顔。
他人の評価を極端なまでに気にする人間が、その周りからの悪評にも意識を配れず、突如として顔をニヤつかせる。その瞬間はまさに、理性がスッポリと抜け落ち、本能がそのニヤけ顔を後押ししている。

もし、人間の秩序や倫理が理性で守られているとしたならば、理性がスッポリと抜け落ちる瞬間、そこにはもう、秩序や倫理さえもスッポリと抜け落ちてしまっていると言える。
フラリと街を歩いている瞬間、電車に揺られている瞬間、ボーッとしている瞬間、そんなありふれた瞬間に、秩序や倫理がスッポリと抜けて落ちてしまう瞬間を持つ人間という生き物は、もしかしたら、我々が考える以上に、凶暴な存在なのかも知れない。

果たして、あなたはあなたを制御できているのだろうか、僕は僕を制御できているのだろうか、生きてきた道のりの中で塗り固められた秩序や倫理なんて、ただの刹那、スッポリと抜け落ちてしまう。それでも、あなたはあなたを制御できるだろうか。

しっかりとした邪心を持って、悪事をはたらく人間、入念に企みながら、人を陥れる人間、そんな悪党はもしかしたら、人間の精神構造からすれば、小童で、一見すると普通に見える人の、刹那のニヤけ顔にこそ、人間の凶暴性と、底なしの残虐性がにじみ出ているのかも知れない。

要するに、人間の細胞だって、人間の精神だって、人間の思考だって、無限なわけであるからして、無限を制御できるわけがなく、じゃあ、あなたが思うあなたは、あなたじゃなく、あなたが考えている程度のあなたは、もはやあなたじゃないわけで、「あなた、実は人を殺していたんですよ」と言われ、そんな意識はございませんと否定するも、「無意識のうちに、人を殺めていたんですよ」と言われ、果たしてそれを完全否定でき得るだけの、あなたにアリバイがあるだろうか。

仮に、寝ている間は、あなたの意識がないとして、じゃあ無意識のうちにも人間は奇怪に動いているものなんだよと仮説。目撃者がいなければ、すぐに否定できるだろうけれど、たったの一人でも目撃者が現れた刹那、あなたの常識は全て崩壊する。そして、あなたがあなたを制御できていないことを実感し、わなわなと震えだす。
自分は自分という存在に操られているのだと気付かされ、その無限の可能性にロマンを感じるも、その無秩序な無限性に畏怖することになる。

ほら、またニヤけた。人間がまた、ニヤけた。


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ただの違いでしかない。だから、好きも嫌いも言わせてもらう。-書評-『五体不満足 完全版』

人間として、全く同じ、なんて有り得ない。
人間同士、お互いの差を意識し、認識しながら、地球の中で共同生活を営んでいる。
その差を強く意識するかどうかのポイントは、個々人の価値観に依存する。あとは、先入観や既成概念。

僕一個人としては、違いがあるのが当たり前で、その違いに種類もクソもない。
違いに種類がない。それはつまり、障害だからとか、病気だからとか、そういった種類がなく、背が高い人低い人、口が臭い人臭くない人、頭がハゲていない人ハゲている人、喋るのが上手い人上手くない人、それらの違いと変わらず、単なる違いでしかない。

そう思わせてくれたのは、生きてきた中で、さまざまな音楽を聴いたり、さまざまな本を読んだり、さまざまな人の考え方に触れたりできたおかげだ。
普通に生きていれば出会わないような表現というものがある。
みんながそれに触れれば、きっと、非難したり、酷評したり、目を伏せたり、無視したりするような表現。
世の中には、そういった素晴らしい表現がたくさんある。
それらに数多く触れてこられたおかげで、さまざまな価値観を受け止めるグローブのサイズが、とても大きくなった。

所詮、みんな右へ倣えで、似たような価値観や文化に埋没することで安心してる。同じような服を着たり、同じような鞄を持って、そのボタンの掛け方だけを工夫して、自分は人と違う、なんて主張してる。
いろんなステータスで着飾って、自分の優越感を保とうとしてる。

違うだろ。

そんなことしたって、人間は人間。アンタはアンタ。髪の毛がクセ毛でみっともなかったり、鼻がひん曲がっていたり、タバコで歯が真っ黄色だったり、指の形がキレイだったり、歌が上手かったり、走るのが遅かったり、睫が短かったり、自転車に乗っていたり、車椅子に乗っていたり、モテない顔をしていたり、陰鬱そうな顔をしていたり、卑屈そうな顔をしていたり、媚びた顔をしていたり。

捏造されたステータスなんかで着飾ってみても、自分の地が、丸見えになってるんだよ、人は。

「障害や病気は、それとは違うだろ」と言われるかも知れない。
じゃあ、障害とも病気とも言われず、健常者で、驚くほどにモテない顔面をしている根暗な男は、どうするんだ?

人は優しくしてくれない。彼に対するバリアフリーは用意されない。周りの人が気を使ってくれることもない。むしろ、逆だ。周りは彼を拒絶し、気持ち悪がり、距離を置くだろう。誰が彼を助ける? 障害や病気を持っている人と一緒にするなって? それはあまりにも現実が見えていない。

障害を持っている人を、健常者と同じように考えようと言ってるんじゃない、障害者よりも不遇で卑屈に生きている健常者だっていることをしっかりと理解することで、結局、どいつもこいつも同じ、ただの違いがある人間同士にしか過ぎないと、言いたいわけだ。


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自分の仕事をもっと愛してやろうと感じ、仕事に注ぐ熱量をもっと増やしたくなる作品。-書評-『舟を編む』

以前、料理の世界において、プロとアマチュアの違いを尋ねられた料理人が答えたコメントが、自分の中での、プロの指標として残っている。

「近ごろではインターネットも普及し、レシピのアプリなども人気を博していることから、アマチュアでもレベルの高い料理を作ることが可能となっている。しかし、アマチュアの人が作る料理には、レベルの高いものもあれば、そうでないものもある。得意料理を作らせれば高いレベルのものが作れるかも知れないが、そうでない料理の場合は、高いレベルを維持できない。そこが、アマチュアがアマチュアたる所以。プロはレベルの高さにムラがあってはならない。プロは毎回、一定レベルを超えた、質の高いものを確実に作り出すことができるし、作り出し続けることができる。それがプロである」

詳細に差異はあれど、こういった主旨のコメントだった。

アマチュアのレベルの高さも認めたかのように見えて、その実、プロとの圧倒的な差について言及している。
プロはレベルの高いものを作り続けられる。確実に、作り続けられる。

好きなものを仕事にできれば幸せだ、なんてことをよく耳にするけれど、子供に言うならまだしも、ある程度の年齢を重ねた人間にとっては、漠然とし過ぎている。

今現在、月に何度かライブハウスに出演しながら、好きな音楽で飯を食って行こうと夢見ている人も多いかも知れない。
今は音楽が『好きなこと』かも知れないが、アマチュアとプロは違う。月に何本か程度の演奏じゃ済まない。売れれば売れるほど、月にこなさなければならないライブの本数やスケジュールも過密する。
そして何より、気楽にライブハウスで演奏している頃とは違い、高額なチケットを購入し、ライブに来てくれたお客さんを、必ず満足させなければならない。同じ会場で3デイズのスケジュールがあれば、初日も中日も最終日も、常に同じテンションと同じ演奏力でもって、もしかすると、二度は来ないかも知れないお客さんたちに向けて、「最高だった!」と言わせしめるライブをしなければならない。

要するに、別れた恋人のことを歌ったヒット曲があれば、過密スケジュールの全公演で、それを演奏しなければならず、気分のムラも見せず、恋人への思いという名の哀愁も欠かさず、全ての公演で別れた恋人のことを想わなければならないし、想っていると思わせなければならない。
アマチュア時代のように、気分が乗ったときだけ、その曲を演奏するなんてわけにはいかない。
気分が乗っているかどうかなんて、お客さんにとっては関係がないことだから。

僕にとって、アマチュアとプロの決定的な違いは、責任感。

誰かに伝えることへの責任感。誰かに届くということへの責任感。自分の拘りに対しての責任感。何かを伝えることで、伝わった人や物や事が、少しでも動くかも知れないという責任感。そして、世の中に未だ無いものを有るものにするという責任感。

責任感の熱量が、プロ意識の高さだと思っている。

前述のミュージシャン志望の彼は、好きなことだから食って行けると勘違いしているかも知れないが、もしアマチュア程度の責任感しかなければ、好きなことは、責任感で雁字搦めになった挙句、嫌いなことになってしまわぬよう、気軽にできる取り組みを続け、ずっとずっと好きなままいるほうがいいと思う。

好きなことをやろうとすると、なぜか、嫌いなことが大量につきまとってくる。
でも、好きなことをやれるんだったら、その嫌いなことを蹴散らすくらいの努力、労力なんて、気にもならない。
それこそが、プロ意識なんだと思う。

プロ意識とは、同じ世界で同じプロとして存在する人以外が見れば、ただただ不可思議でしかない、そこまで尖ったもの、それがプロ意識なんだな。


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しかし、もう、こんな小説書かれてしまった日には、負けを認めるしかないや。-書評-『パンク侍、斬られて候』

人間の脳みそというのは、限界を知らないのか?
いや、大概の人の脳みそなんてものは、限界どころか、底が見えているものかも知らないが、この人の脳みそだけは、なんだ、いったい。

人間は、生きているうちに、どんどんとルールを遵守しながら、雛形を意識しながら、枠にはまりながら、なんと言うか、日本人と喋るときには日本語を使うのが当たり前だとか、雨が降っているなら、傘を差すのが普通だとか、ご飯は箸を使って食べるのが当然だとか、誰が決めたわけでもない「普通」というやつを、普通にやりながら、毎分毎秒生きている。

しかしだ、それは、なぜ守らねばならんのだ。
そんなことさえ疑わずに生きてしまっているぞ、子供のころを過ぎてから、ずっと。

そうやって考えてみれば、なぜ上司には気を使わねばならないんだ、なぜ得意先にはまるで土下座でもするかのような姿勢で接せねばならないんだ、なぜ定時に会社に行かねばならないんだ、なぜ髪の毛をド派手な色に染めて仕事に従事してはならないんだ、なぜ夜に眠るんだ、なぜ朝に起き出すんだ、なぜやりたくもない奴に対して愛想笑いなんかしてるんだ、なぜ間違っていると分かりきっている社会のルールに縛られているんだ。

なぜ、なんだ。

型にはまらずに生きて行こうと考える。でも、大概の人は、同じようにして、型にはまらず生きたいと願っているもんだから、大概の人たちと同じように願いながら生きることになる、それはすなわち、型にはまらずに生きたいと願うという型にはまった生き方をしてしまっているということ。

ほら、もう、こんな風なややっこしいことを考え始めてしまっている段階で、すでに、型にはまろうと、型に向かって闊歩してしまっているやないか。

パンクというのも実に厄介なもので、これをするとパンクじゃないとか、パンクならこうするべきだとか、型破りとかホザいてるくせに、パンクという型にはめよう、はまろうとして、なかなか滑稽で。
それはもう、パンクという捉え方が一人歩きしてしまっているからに他ならない証拠で、でもそれっていいことで、パンクというものを、個人個人が自由に定義できるという、ほら素晴らしい。

しかし、もう、こんな小説書かれてしまった日には、負けを認めるしかないや。


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人の生き方というものは、結局、光の当て方次第で発色が変わる、相対的なものだと思うんだ。-書評-『風の歌を聴け』

人の生き方というものは、光の当て方によって、楽しくもあったり悲しくもあったり、切なくもあったり麗しくもあったりする。

誰かと会って、楽しい時間を共に過ごすとする。
その時間が終わり、その人とサヨウナラをする。
背中を見送り、顔を向き直り、さあ、帰ろうかと歩を進めた瞬間、先ほどまでの自分からは想像もつかないほどの、ため息にも似た感情が、自然と漏れ出すことって、ないだろうか。

始まりには終わりが付き物で、楽しさには祭りの後の寂しさが付き物で。
10代はあっという間に終わるけれど、20代も30代も40代も、そう考えると、人の一生なんて、あっという間に終わってしまう。
昔手にしていた幸せも、今手にしている幸せも、やがて手にする幸せも、いつかは全て、無くなってしまう。

そう考えると、生きていることなんて、無味乾燥、何も愉快じゃないじゃないかと反発したくもなるけれど、そんな虚無な哲学を、心のどこか、DNAの奥深くに潜めているからこそ、一瞬一瞬を華やかに演出してみたり、痛快な話で盛り上がってみたり、サプライズを起してみたり、時には自分を壊してみたりと、話題に事欠かないよう、自分に気を使いながら人は生きているんじゃないだろうか。

青春時代も、同じ。
若いからと言って、無鉄砲なだけじゃない。
その若さが、どこから来て、どこへ消えて行くのか。そして、その果てには何が待っているのか。悶々と日々を過ごしながら、心の中に乾いた感情をひた隠しながら、無限の可能性を信じたフリをして、無邪気に毎日を過ごしていく。

結局は、光の当て方なんだと思う。
人の生き方というものは、結局、光の当て方次第で発色が変わる、相対的なものだと思うんだ。


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そんな世界は自分と縁のない場所に広がっていると思い過ぎてやしないだろうか。-書評-『コックサッカーブルース』

ミステリーとエロスが交錯する世界。
この世界には、ミステリーが溢れているのか、それとも、この世界には、エロスが溢れているのか。

村上龍の小説を読むと、いつも思う。
こんな世界が本当にこの世にあるのだろうか。でも、きっと本当にそれはどこかにあって、でも、自分がそのどこかに行っていないだけで、触れていないだけで、体験していないだけで、きっと今夜も世界のどこか、いや、日本のどこかでは、当たり前のようにこんな世界が広がっているんだろうな、と。

自分にとっての非日常を、日常として生きている人たちも、きっといるんだろう。
極端な話、今この時間、この国のどこか、例えば路地裏のマンションの一室で、こめかみに拳銃を突きつけられている人だっているかも知れない。
それは、今この時間、ついさっき出会ったばかりの男女が、どこかのホテルの一室で、汗ダクになりながらセックスしていることだって、当然のようにあり得るのと同じ。

そんな世界は自分と縁のない場所に広がっていると思い過ぎてやしないだろうか。
自分はそんな世界に足を踏み入れることがないと過信し過ぎてやしないだろうか。

例えば、ニュースで報じられる事件で、自分の住んでいる町のすぐ近く、馴染みの場所で凶悪犯罪が起こったとする。
そのニュースを見て、一瞬だけ、そんな世界と自分の世界とをリンクさせようと、人間の感情は試みてみる。
そうして、ゾッ、と感じる。
でもまたすぐに、そんな世界をどこか遠く遠く、自分とは縁のない世界へと追いやってしまう。

果たして、そうだろうか。
もしかしたら、自分のすぐそばに、そんな世界は広がっているのかも知れない。
逃げようとしても、あちら側からご丁寧に、巻き込みにやってくるのかも知れない。

村上龍を読むと、いつもそんな気にさせられる。


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そろそろ人間としての型をぶち破りたいと渇望している人にオススメな一冊。-書評-『テースト・オブ・苦虫2』

年齢を重ねたり、成功を手にしたりし始めると、人は贅沢な顔面になっていくわなあ。
顔面に無駄に肉を備え始めたり、腹がボテチンと出始めたり、むやみやたらと、肌の色が浅黒くなったり。
ほんでやな、交流する人々も、俗にいう「偉いさん」とか呼ばれる人ばかりに偏り、善人のフリをしているクセに、その実、裏ではしっかりと悪巧みをしながら、着々と至福を肥やし利益を貪る。

そんなイメージ、ありまへんか?
社会に出てみると、ものの見事にそんなイメージの人たちが多く、社会で人と接してみると、ものの見事にそんなイメージの人ばかりで、閉口を通り越して、口をミシンで縫いたくもなる。

しかししかし、世の中のキッズたちよ、安心したまえ、何も世の中、そんな腰抜けのような大人ばかりじゃないぞ。年齢を重ねようが、成功を手にしようが、ちゃんと美しくも腐った魂を捨てずにいられる、カップラーメンやスナック菓子を愛せる、冬でも路上で缶ビールが飲める、パンクロックのライブに行けば、キッズよりも激しいモッシュができる、そして、周りからして、愛さずにはいられないような大人が、希少なれど、いるものだ。

もしかすると、着々と至福を肥やし利益を貪っているような人たちには、余裕がないのかも知れない。
カップラーメンやスナック菓子を愛しているような、キラキラ輝く大人たちには、余裕があるのかも知れない。

その実、年齢を重ねたり、成功を手にし始めてしまうと、何も変わらないというわけにはいかない。生き方だって、金の使い方だって、交友関係だって、見た目だって、絶対に変わって行くもの。
だけど、余裕を持った、輝く大人たちは、そういった姿、様相を表に出さず、自分をしっかりと演出しながら、自分の思う生き方、要するに、他人に媚びた姿を曝け出しながら、ヨダレを垂らしながら利益を貪るような腰抜けのような姿は見せず、どこまでも、自分の生き様に応じた自分をセルフプロデュースできているのかも知れない。

社会で聞こえる八割近くの会話が、同じようなことを言っている。
かと言って、社会は決して、同じようなことばかりで八割近くを埋め尽くされているわけではない。

社会に蔓延る見え透いた流れに飲まれてしまえば、結論、人としての旨みが削がれて行くということだ。

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家族という小さな空間の中で充満する、介護という大きな心の問題をひも解いてくれる。-書評-『スクラップ・アンド・ビルド』

日本の近い将来を考えるとき、介護という言葉がすぐに頭に思い浮かぶ。
自分の遠くない将来を考えるとき、老いという言葉が頭をよぎる。

人は長生きというものを選んだ瞬間から、介護という義務と責任も同時に選んだんだと思う。
そして日本は高齢化社会を向かえ、高齢化社会を加速させ、高齢者の国になる。
老人が老人を介護する世界、老人が老人の送り迎えをし、老人が老人を頼りにする時代。

人は誰だって、今のことしか考えたがらないから、いくら将来の備えをと思っていたって、いざ自分が介護をされる立場になったときのことなんて、鮮明にイメージできる人なんているわけがない。
年金の問題や税金の問題、介護施設の問題や介護の働き手の問題やら、たくさんの問題は山積みになっていて、それらに対する対策や対応が求められているという現状は、時事の情報やニュースを見ていれば誰だって知っていると思う。

でも、介護について一番思うのは、心の問題。

今まで当たり前にできていたことができなくなってしまう老い、普通にできたことを誰かに頼らねばならなくなってしまうという恐怖、それを申し訳ないと感じ、それを恥ずかしいと感じ、それまで自由だった四肢が、不自由な四肢へと衰えてしまう不安、心はどこへ向かってしまうのだろうか、心はどこを向けばいいのだろうか。

生きていればなんとかなるさ。やる気があればなんとかなるさ。頑張ればなんとかなるさ。
若い頃に聞きなれた言葉、若い頃に言いなれた言葉、若い頃に実際にそうやってみて、なんとかなってきた日々、なんとかできた日々。

老いが来れば、きっと、そんな言葉は当てはまらない。

老いてまで生きたくないからと息巻いた若い頃、現実はそんなに甘くないんだ、死ぬことさえ選べないほど、身体は老いていく、死ぬ力さえひねり出せないほど、身体は老いていく。

そんな風に考えると、やっぱり、老いとは、身体の問題であり、心の問題でもあると思う。
老いを見つめる自分の心、老いを周りで見つめる家族の心。

世の中で今、数多語られている、介護の話には、心の問題が欠如している。
だからこそ、介護の世界で手垢に塗れるほど使い込まれている、「第二の豊かな暮らしを」とか「いつまでも笑顔溢れる生活を」とか、心の問題を置き去りにしたような、造花のような言葉には、違和感しか覚えないんだ。

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ツービート、こうして奇跡は誕生するのか。-書評-『浅草キッド』

笑いというのは、とにかく深い、芸だと思う。
人を笑わせるというのは、とても難しく、それだけに笑わせているほうの技量、器量、度量、熱量、それらは凄まじく、まさしく、正真正銘の芸だと思う。

下積み。
芸の世界はもちろんのこと、昔は下積みの期間や、下積みの時代、うだつが上がらなければ万年、下積み。
そういった下積みを経験するからこそ、貪欲さが生まれ、這い上がろうとし、芸の中で盗めるものは盗んでやろうという、のし上がるための狡猾さを学んで行くんだと思う。

一般社会では、どんどんと、下積みと呼ばれるような制度はなくなりつつあるように感じる。
それだけ、一般社会では、新しく登場する新人たちとの価値観のギャップに、人を育てるということを放棄し、住む世界を異にしてしまっているんだろうな。
だから、下積みを経験させて、這い上がらせるなんてことに、付き合う年長も少なくなるわけだ。

芸人。
芸人さんの世界は、とても特殊な世界なんだろうと思う。
又吉著『火花』でもあるように、金がなくても先輩は後輩に対して、どんな状況でも奢ることを常とし、後輩を飲みに誘ったものの、金がないときには、借金してでも金を作って、奢る。

今ではもう使い古されてしまったのだろうか、芸人さんといえば、飲む打つ買う、道楽の限りをつくす、なんとも夢のある世界で、芸事で一発当てたときの夢の大きさと、一発当てることの厳しさが体現されている。

芸の世界には、なんでこんなにも物語がついて回るのだろうか。
芸の世界に暮らさない、市井の人たちの生き様にも、物語はついて回っているのはもちろんだけれども、芸の世界には、なぜあれほどに物語りがついて回るのだろうか。

こう思う。
芸の世界に住まう人たちは、生きるという芸を生きながらにして演じているからなんだろうと。

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芸人の日々なんて、こんなもんかと、すごくいい意味で安心できた本作。-書評-『火花』

誤解を恐れずに言うならば、芸人の日々なんて、こんなもんかと、こんなに必死になって日々を芸人らしく生きているのかって、勝手に崇高なイメージを持っていたよ、勝手にその存在を崇拝していたよ、だから安心した、こんなもんかと、僕らと何ら変わらずにもがいているんじゃないかって、日々を賑やかにすることに必死になってもがいているんじゃないかって、そんな風に、僕たちと何ら変わらない姿が伝わってきて、安心した。

生きることにはお金が必要だ。お金を手にするためには、仕事が必要だ。仕事とは、誰かに求められること、誰かに必要とされること。それがどんな理由だっていい。
君にしかこの巨大プロジェクトのプロデュースは任せられないから、君が必要だというものでもいいだろう。アルバイトの某氏が飛んじゃったもんだから、急遽本日のフロアを任せられるのは、君しかいないからというものでもいいだろう。
足元の小石をポンッと蹴飛ばすことが、今君にしかできないから、だから君が必要だという理由だっていいだろう。

ともかく、必要とされることが必要で、不必要とされた時点で、社会からは存在が消されてしまう。
存在が消されたとしても、自分はここにしっかりと存在しているから、だから、その矛盾に心が痛んで、身動きができなくなってしまう、もしくは異常なまでに極端に暴れてしまう。

本日、微かな幸せを手にしました。半年後、その微かな幸せを、人知れず失いました。思い返せば、その半年間、その微かな幸せを守るために強がり、失う不安に苛まれ、すぐそばに存在していることを感じては安心し、誰かに奪われやしないかと怯える。
たとえばそんな、毎日。
そんな毎日が、ただあるだけ。
結局は、そんなことの繰り返しで、そりゃ歳とともに、感性も変化するだろうから、捉え方や感じ方は変わってくるものの、結局は、そんなことの繰り返しで、人の一生は形成されているんだろうと思う。

夢とはいったい、何だろうか。
必要とされるって、いったい何だろうか。
あの日見た火花は、飛び散って、今どこにあるのだろうか。

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生きるっていうことは、ここまで、人に成長を強いるものなのだろうか。-書評-『白い花と鳥たちの祈り』

今よりもずっと若い頃、僕たちはきっともっと繊細で、繊細でというのは、人間そのものの性質はもちろん変わっていないので、絶対的なそれが変わってしまったのではなく、どこかしらに諦めに似たような感情を抱くようになって、それを怠慢と呼ぶのか、成長と呼ぶのか、一つひとつのことに、いちいち反応をしなくなってしまった。

社会というシガラミの中で日々生きていても、それを崩そうとも壊そうともせず、それに対して不満や文句は吐くものの、心のどっかで、こんな風なことが、どうせずっと続いて行くんだろうなって、諦めてしまっている。
それを『大人になった』なんて自覚しながら、さも、抗わないこと、挑まないことこそが、大人、安定、器、などと高貴そうなレッテルを貼って、慢心している。

でも、違うよね。
今よりもずっと若い頃もそう、今だってそう、これからだってそう、毎日の密度、日々起こる出来事の密度、日々触れ合う人々との摩擦の密度なんてものは、変わっていない、変わるわけがない。
本来、日がな一日を、のほほん、何も起こりませんでしたなんて涼しい顔をして過ごせるわけがない、命がそうさせてくれるわけがない。

ただ、慣れはきっと、あると思う。
長く生きていれば、それだけ、ルーティーンで巻き起こることも多かろう、だからこそ、慣れはきっと、あると思う。
感受性にも慣れはあると思うから、同じ映画を二度観ても、もはや、一度目の感動を、二度目にも同じように味わうことは不可能なんだ。

じゃあどうするか?
今よりずっと若い頃の自分に尋ねてみるか? 今の自分に尋ねてみるか? 未来の自分に尋ねてみるか?

人は、自らが選んだ環境の中と、選ぶ権利さえなく存在させらた環境の中で、自分を上手く適応させながら、行ったりきたりしながら泳いで行く。

大人になるっていうことは、もしかしたら、自らが選んだ環境の中で、逃げも隠れもせず、胸を張って堂々と生きていくこと、その生き方に、覚悟を持って泳ぎ出すということなのかも知れない。

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もしかすると、朝、当たり前のように目覚めていることだって、奇奇怪怪なことなのかも知れない。-書評-『蛇を踏む』

もしかすると、朝、当たり前のように目覚めていることだって、奇奇怪怪なことなのかも知れない。

そう思いながら世界を見渡してみると、どこもかしこも、不可解なことだらけで、奇妙なことだらけで、第一、今こうして手に取っている十円玉でさえ、どこの誰の手を渡り歩いてきたかも分からないわけで、それはこの界隈に住まう人間の間を渡り歩いてきたわけではなく、果てしなく北のほうから、果てしなく南のほうまで、どこの誰だか分からない人の手を渡り歩いてきた、この十円玉、それを今手に取って眺めている。
こんなおかしな話があるだろうか。

人間の性質としてもし、昼行性のタイプと夜行性のタイプと、二種類が均等に、ほぼ均等に分かれているようなものに、予め設えてもらっていたなら、夜も動く夜も動く、人間の半分は夜も動く、ということで、夜の闇で行われている犯罪、例えば、空き巣とか強盗とか、人が寝静まった頃を見計らって企てられる犯罪というのは、激減するのかも知れないなあ、いや、でも、ダメか……。これまで昼に犯罪を犯していたタイプの人間も、夜行性のタイプに入ってしまったら、夜にでも犯罪を企てる企てる、ああそうか、なんとも奇奇怪怪だなあ。

蛇を踏む。

奇奇怪怪な世界に引きずり込まれそう。
それが、大きな違和感じゃなくて、小さな違和感だからこそ、余計に引きずり込まれそう。

ああ嫌だ、うちにも蛇が来たらどうしよう、ああ嫌だ。

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出会いと別れと変化、人はこの三つを繰り返して生きて行くんだろうな。-映画評-『ベイマックス』

生きていれば、出会いがあって、生きていれば、別れがあって、そのどちらも、自分という人間を変化させてくれる。

誰かと出会ったことで、一時的に歓喜することもあれば、生涯の変化を、その出会いがもたらせてくれることだってある。
誰かと別れることで、立ち直れないほどに心が崩壊することもあれば、誰かを失った悲しみから這い上がることで、それまでよりも、強い自分に変わって行くことだってある。

物語を観ていれば、物語を読んでいれば、物語を聞いていれば、そんな出会いや別れや変化が、話の展開にとても強弱をつけてくれて、ドラマチックにしてくれて、ロマンチックにしてくれる。
それがあるからこそ、物語の結末を知るまで、ずっとずっと没入していられる。ワクワクしながら。

じゃあ、物語以外だったら、どうだろうか?
現実の世界も、そんな風にあんな風な、出会いや別れや変化があるのだろうか?

ないから、物語に求めるの?
それとも、あるけど、僕らの触手は鈍感なだけ?

そんなことを、眠れない夜に考えてみては、僕らの物語は、どんどんと進んで行く。

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湿気のなかにズルズルと引き込まれていけば、そこでは、大人たちが持つ事情が飛び交う。-書評- 『真夏の犬』

脳内に思い返す昔の景色には、今ほど恵まれていない日本があって、セピア色した大阪があって、大量の排気ガスや、とても裕福とは呼べない身なりをした人々、便利さなどとはほど遠く、オモチャというよりも玩具で遊びながら、埃っぽい町中を走り回っている自分がいる。

本書を読んで、意外な事実に気づかされた。

それは、思い返す昔の景色には、当然のように子どもの僕たちが映っていて、子どもの視点や子どもの感性で持って、町を眺めて、人を眺めて、言葉を発して、そういった景色が懐かしく流れていくので、昔の景色には、子どものどこかしら酸っぱいような、青々しい香りしかしないものと思っていたけれど、その景色のなかにはきちんと大人たちも存在していて、大人たちの世界も存在していて、大人たちの事情もしっかりと存在していたんだということ。

子どもの時代は『当時』で、大人の時代は『現在』、というのは、自分の都合で、子どもの時代も大人の時代も『当時』として過ごした人なんてたくさんいるんだ、だから、当時も今も変わらず、大人たちは、大人たちで持ち合う事情を交し合い、大人にしか理解できない会話で、悟れない合図で、分かり合えない温度で、当時の景色のなかを、たくさんの事情を持って生きていたんだって、まるでカルチャーショックのように、本書を読んで気づかされた。

どうして、『当時』を思わせる物語というやつは、これほどまでに湿気が多い気がするのだろう。これは個人的な感覚だろうか、とても湿気が多く、ジトジトしている気がする。
それは決して悪い意味ではなく、『当時』を思い、想起しない限り、感じ得ない貴重な湿っぽさ。
裏を返せば、『今』の物語には、そういった湿っぽさは、全くと言っていいほど、感じられない。
それは、文学だけじゃない。音楽だってそうだ。テレビやラジオだってそうだ。ということは、『時代』がそうさせていたのかも知れない。いったいどういう作用で、そんな湿っぽさが生まれるんだろうか。

例にも漏れず、宮本輝の世界にも、同じ湿った気配が漂っている。
それは、一度触れると、ズルズルとその湿度に引き込まれるかのように、時代をトリップさせられる。

昭和とか、貧困とか、回顧とか、ノスタルジーとか、そういった単語では表すことのできない、湿気のなかに、ズルズルと引き込まれていく。

真夏の犬 (文春文庫)
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宮本 輝
文藝春秋
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逃げるか、闘うか、受け入れるか、そんな辛辣な選択を迫られることそのものが、あまりにも悲痛だ。-書評-『ヘヴン』

イジメというものは、無くならないものなのだろうか。

日本以外、世界中、先進国でも発展途上国でも、どこにでも万遍なくあるものだろうか。
そう言えば、動物園での餌やり体験などで、檻の外から餌を差し入れようとすると、獰猛な奴が前へ前へと競り出してきて、気の弱い奴は、奥へ引っ込められ、ひとつも餌を貰えないという光景を目にすることがある。
動物の世界にでも、やはりイジメはあるのだろうか。
子供だけの問題じゃない。社会に出てもイジメは存在する。
大の大人が、弱者をイジメる光景など、日常茶飯事だ。

なんでなんだ?楽しいこと、面白いこと、愉快なこと、痛快なことが、あまりにもなさ過ぎて、それの代用に、誰かをイジめて、それで快感を得たり、脳内をドーパミンで満たしたりしているのか?
そして、その行為に慣れ、特に快感もクソも感じなくなってしまった果ては、まるで習慣の如く、その行為を続けるだけなのか?

だとしたら、あまりにも乾いている。

子供たちに対して、「イジメに甘んじ続ける必要はない」と、逃げる手段を指南したとしても、社会というモンスターが敷いたレールから、それが例えイジメが原因で「逃げた」としても、結局は、社会的に弱者として扱われる。
そのレールからドロップアウトして、欠けてしまった学歴や社会的地位は、後々、誰がケアしてくれるのか。理由が理由だということで、その欠けを、豊かな気持ちで包んでくれる環境なんか、この世にあるのか。
ドロップアウトして別のレールを選んだとしても、大の大人が次のイジメを用意しているようなこの世の中に、安堵できる場所なんて、あるのか。

結局、社会というモンスターは、人としての、ある一定の暗黙のボーダーラインを用意してやがる。
そして、それを下回る人間を、弱者として位置付ける。
弱者の身には、いつ何時、何が起こってもしょうがない。
そのボーダーを下回る弱者だから、という理由だけで、その身に何が降りかかってくるかわからない。

そのボーダーラインの要素は、恐ろしく細かく、恐ろしく項目が多い。
貧困だってそう、障害だってそう、見た目も、腕力も、性格も、社会の適合性や、声、仕草、住んでいる場所、親、親戚、職業、何もかもがその要因になる。

だから、こう言ってしまうしかないのか。
「弱者は、自らが強くならねばならない。弱者の身を守ることができるのは、弱者である自分自身しかいない」

少なくとも僕はそうやって生きてきた。
その果てに僕は、だったらいつか、強者を潰してやりたいと、その思いを胸に生きてきた。

でもふと思う、それって、戦争やテロを起こす心理と同じじゃないかって……。


ヘヴン (講談社文庫)
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川上 未映子
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今年の棚卸し

今年ももうすぐ終わる。

「一年、あっと言う間やなぁ」などと言ってる大人が大嫌いだったけれど、最近の口癖は、すっかり「一年、あっと言う間やなぁ」。こんな大人にはなりたくないと思っていた大人になってしまうのも、あっと言う間だった気がする。

ともかく今年は、自分の夢だった、物を書いて対価をもらうということが実現したので、なかなかに満足している。
来年は次の夢、物を書いて貰った対価で飯を食う。というところを捕まえに、船出しようと思う。

それはさておき、今年の棚卸し。

今年もいい音楽を聴いたり、いい本を読んだり、いいもんを食べたり、笑ったり泣いたり怒ったりと、退屈しない一年だったような気もするけれど、後半は、よく働いて働いて、精神的にも体力的にもクタクタになった。

今年一年、心の琴線に触れたものを、書いてみて、棚卸しとしてみよう。

20141223続きを読む

色、情景、匂い、温度、人間模様、人間とは豊かな生き物だ。-書評-『奇妙な昼さがり』

事実は小説より奇なり。
とはよく言うもんで、実際にそんな風に感じることは、しばしばある。

そう考えると、人間が生きているこの世界には、世に創り出されたショートショートの数よりも多く、まことに奇妙で、まことに珍妙で、ときにゾッとしたり、ときに痛快な気持ちにさせられたり、そんな物語が用意されているものなのだろうか。

答えは、イエスだと思う。そして、答えは、ノーだと思う。

この世界には、際限なく物語りが創り出されては、人間たちがそれらに一喜一憂しながら、生きる気力を失ってみたり、死ぬ決意を覆して歩き出したり、他人事のように言わせてもらうならば、そうやって日々、にぎやかに生きている。
街中でもそう、電車の中でもそう、職場でもそう、居酒屋でもそう、ふと周りの景色を見てみれば、そんなドラマの渦中にいるような人たちで、ごった返している。
きっとそれらドラマの数々は、到底、人間が筋書きを準備できるほどに、理路整然と整えられたものなんかじゃなくって、想像もしないタイミングで始まり、予想もつかないような終結を迎えるような、そんな大作ばかりなんだろうと思う。

でも、それをただ、指をくわえて眺めてばかりはいられない。
物書きは、それに対抗して、どんどんと新しい世界を創り出して行きたいと思う。
ただ生きているだけでにぎやかな、人間の日々の中にあって、そのにぎやかしのひとつに加えていただくべく、そんな奇想天外な物語を、創り出して行きたいと思う。

選択できぬまま、奇想天外に巻き込まれるのが、人間の日々なら。
選択して、好みの奇想天外に没入するのが、小説なら。
選択した好みの奇想天外を、奇想天外なかたちで裏切るのが、ショートショートだな。

だからこそ、答えは、イエスだと思うし、そして、答えは、ノーだとも思う。

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夜の闇の向こう側には、いったい何があるというのだろうか。-書評- 『アフターダーク』

夜には予定調和がない。

夜以外なら、視界に入る誰か、耳の中に言葉を放り込む誰か、歩くだけでも他人と肩がぶつかってしまうほどにこじんまりとした都会という世界、誰かのペースに引きずられ、誰かが作りだした理不尽なストーリーの中に、半ば無理矢理にでも片足を突っ込まされるために、自分の意志などなく、ただただ流されてしまう。

夜も同じ、流されてしまうんだけれど、自分の意志で流れていくイメージがあるんだ、夜には。

どうして夜には予定調和がないのだろうか。
それはきっと、太陽が昇っている間は、何が起ころうとも、やがて陽が沈んで、夜になることを疑わないけれど、夜になり、辺りが闇になり、真っ黒なはずの空がだんだんと月の光に、じんわりと染められていき、なんだか思っていたよりも青いなぁなんて感じ始め、そのうちに、深い夜の空の、どこか白々しいほどの色合いに、人は闇の中でも生きていけるのじゃあないだろうかと、意味のないことを思考に浮かべつつ、ふと思うんだ。

もう、二度と、朝なんて来ないんじゃないだろうか。

僕の世界でも、君の世界でも、夜に予定調和はない。
僕たちそれを知りながらも、そそくさと枕の中に思考を沈め、予定調和だらけの朝に向かうために、眠って眠って、その素晴らしき世界が広がる、いや、素晴らしき世界が蔓延る夜というものを、ショートカットして生きて行く。

たった一度きりでもいい。
もう一度だけ、あの感じ、あの、一生分の憂鬱や楽しみや切なさや悲しみが、恐ろしいまでの密度で圧縮されたような、そんな真っ暗で、薄っすら青くて、どこか白々しいほどの色合いに包まれ、朝のこない、永遠の夜を、もう一度だけ過ごしてみたい。

夜の闇の向こう側には、いったい何があるというのだろうか。

アフターダーク (講談社文庫)
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皆様方、初期衝動はお持ちですか?-書評-『14歳掘

14歳。
一般的には、中学二年から三年の頃。
子供の感覚から、大人(びた)感覚に至るまでの過渡期。

あの頃、自分は何をしていただろうか。
ギターを弾いたり、ビートルズを聴いたり、フォークソングやブルースを聴いたり、ビジュアルロックを聴いたり、純文学に傾倒したり、吉本の二丁目のお笑いに傾倒したり、バスケットして、漫画読んで、妄想して妄想して、悩んだり、悩まなかったり、笑ったり、怒ったり、しゃべったり、黙ったり。

子供の人格形成なるものは、物心つく前、はるか幼い頃に形作られるそう。
じゃあ、大人の人格形成なるものは、いつ形作られるのだろうか。

そう考えると、この、14歳あたりなんじゃないだろうかと思う。

幼い頃に形作られる人格は、ある種、悲しい部分も多いだろう。
親の影響も多いにあるだろうし、家庭環境やら家庭の財政事情やら、住む場所の環境、つまりは、大人たちの傘の下、大人たちが作った世界の中で、ただただ従順させられる。
そうやって人格なるものが形成されるというのも、なんだか人間臭い。

じゃあ、14歳には、何が形成されるのだろうか。

自分は、何者にもなれる、という自由を信じ、世界中に存在するさまざまなものを、自分なりの価値観と、自分なりのアンテナと、自分なりの嗜好で、ちぎっては自分にくっつけ、ちぎっては自分にくっつけ、そうしてどんどんと新たな自分、つまりは大人の人格のベースを形成していくんじゃないだろうか。

根は幼き頃に、蕾は14歳に、そして、開花は、その後の自分の生き様次第。
そう思う。

14歳III
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常盤 英孝
自分史[プロフィール]

大阪のモノ書きでありWeb屋であり広告屋。

どうにかロクデモナイ売文稼業家としてメシを食っていける日を夢から現実に変えるべく、うぬぼれ一本で今日もくだらん文字を書き続ける日々。

大阪を盛り上げるべく、たくさんの人と出会い、とにかく"コトを起こす"ことをお酒の肴に呑んだり、わいわいやったり、時には本気で"コトを起こしたり"など。

日々、書き、描き、話し、モノづくりをしています。

モノ書きとして活動しながら、中小企業・個人事業主の方々のWebサイト制作のニーズを叶えるべく、そのお手伝いもしています。

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