大阪モダンディスコ

大阪のモノ書きでありWeb屋であり広告屋。 ロクデモナイ売文稼業家としてメシを食っていける日を夢から現実に変えるべく、うぬぼれ一本で今日もくだらん文字を書き続ける。

湿気のなかにズルズルと引き込まれていけば、そこでは、大人たちが持つ事情が飛び交う。-書評- 『真夏の犬』

脳内に思い返す昔の景色には、今ほど恵まれていない日本があって、セピア色した大阪があって、大量の排気ガスや、とても裕福とは呼べない身なりをした人々、便利さなどとはほど遠く、オモチャというよりも玩具で遊びながら、埃っぽい町中を走り回っている自分がいる。

本書を読んで、意外な事実に気づかされた。

それは、思い返す昔の景色には、当然のように子どもの僕たちが映っていて、子どもの視点や子どもの感性で持って、町を眺めて、人を眺めて、言葉を発して、そういった景色が懐かしく流れていくので、昔の景色には、子どものどこかしら酸っぱいような、青々しい香りしかしないものと思っていたけれど、その景色のなかにはきちんと大人たちも存在していて、大人たちの世界も存在していて、大人たちの事情もしっかりと存在していたんだということ。

子どもの時代は『当時』で、大人の時代は『現在』、というのは、自分の都合で、子どもの時代も大人の時代も『当時』として過ごした人なんてたくさんいるんだ、だから、当時も今も変わらず、大人たちは、大人たちで持ち合う事情を交し合い、大人にしか理解できない会話で、悟れない合図で、分かり合えない温度で、当時の景色のなかを、たくさんの事情を持って生きていたんだって、まるでカルチャーショックのように、本書を読んで気づかされた。

どうして、『当時』を思わせる物語というやつは、これほどまでに湿気が多い気がするのだろう。これは個人的な感覚だろうか、とても湿気が多く、ジトジトしている気がする。
それは決して悪い意味ではなく、『当時』を思い、想起しない限り、感じ得ない貴重な湿っぽさ。
裏を返せば、『今』の物語には、そういった湿っぽさは、全くと言っていいほど、感じられない。
それは、文学だけじゃない。音楽だってそうだ。テレビやラジオだってそうだ。ということは、『時代』がそうさせていたのかも知れない。いったいどういう作用で、そんな湿っぽさが生まれるんだろうか。

例にも漏れず、宮本輝の世界にも、同じ湿った気配が漂っている。
それは、一度触れると、ズルズルとその湿度に引き込まれるかのように、時代をトリップさせられる。

昭和とか、貧困とか、回顧とか、ノスタルジーとか、そういった単語では表すことのできない、湿気のなかに、ズルズルと引き込まれていく。

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逃げるか、闘うか、受け入れるか、そんな辛辣な選択を迫られることそのものが、あまりにも悲痛だ。-書評-『ヘヴン』

イジメというものは、無くならないものなのだろうか。

日本以外、世界中、先進国でも発展途上国でも、どこにでも万遍なくあるものだろうか。
そう言えば、動物園での餌やり体験などで、檻の外から餌を差し入れようとすると、獰猛な奴が前へ前へと競り出してきて、気の弱い奴は、奥へ引っ込められ、ひとつも餌を貰えないという光景を目にすることがある。
動物の世界にでも、やはりイジメはあるのだろうか。
子供だけの問題じゃない。社会に出てもイジメは存在する。
大の大人が、弱者をイジメる光景など、日常茶飯事だ。

なんでなんだ?楽しいこと、面白いこと、愉快なこと、痛快なことが、あまりにもなさ過ぎて、それの代用に、誰かをイジめて、それで快感を得たり、脳内をドーパミンで満たしたりしているのか?
そして、その行為に慣れ、特に快感もクソも感じなくなってしまった果ては、まるで習慣の如く、その行為を続けるだけなのか?

だとしたら、あまりにも乾いている。

子供たちに対して、「イジメに甘んじ続ける必要はない」と、逃げる手段を指南したとしても、社会というモンスターが敷いたレールから、それが例えイジメが原因で「逃げた」としても、結局は、社会的に弱者として扱われる。
そのレールからドロップアウトして、欠けてしまった学歴や社会的地位は、後々、誰がケアしてくれるのか。理由が理由だということで、その欠けを、豊かな気持ちで包んでくれる環境なんか、この世にあるのか。
ドロップアウトして別のレールを選んだとしても、大の大人が次のイジメを用意しているようなこの世の中に、安堵できる場所なんて、あるのか。

結局、社会というモンスターは、人としての、ある一定の暗黙のボーダーラインを用意してやがる。
そして、それを下回る人間を、弱者として位置付ける。
弱者の身には、いつ何時、何が起こってもしょうがない。
そのボーダーを下回る弱者だから、という理由だけで、その身に何が降りかかってくるかわからない。

そのボーダーラインの要素は、恐ろしく細かく、恐ろしく項目が多い。
貧困だってそう、障害だってそう、見た目も、腕力も、性格も、社会の適合性や、声、仕草、住んでいる場所、親、親戚、職業、何もかもがその要因になる。

だから、こう言ってしまうしかないのか。
「弱者は、自らが強くならねばならない。弱者の身を守ることができるのは、弱者である自分自身しかいない」

少なくとも僕はそうやって生きてきた。
その果てに僕は、だったらいつか、強者を潰してやりたいと、その思いを胸に生きてきた。

でもふと思う、それって、戦争やテロを起こす心理と同じじゃないかって……。


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今年の棚卸し

今年ももうすぐ終わる。

「一年、あっと言う間やなぁ」などと言ってる大人が大嫌いだったけれど、最近の口癖は、すっかり「一年、あっと言う間やなぁ」。こんな大人にはなりたくないと思っていた大人になってしまうのも、あっと言う間だった気がする。

ともかく今年は、自分の夢だった、物を書いて対価をもらうということが実現したので、なかなかに満足している。
来年は次の夢、物を書いて貰った対価で飯を食う。というところを捕まえに、船出しようと思う。

それはさておき、今年の棚卸し。

今年もいい音楽を聴いたり、いい本を読んだり、いいもんを食べたり、笑ったり泣いたり怒ったりと、退屈しない一年だったような気もするけれど、後半は、よく働いて働いて、精神的にも体力的にもクタクタになった。

今年一年、心の琴線に触れたものを、書いてみて、棚卸しとしてみよう。

20141223続きを読む

色、情景、匂い、温度、人間模様、人間とは豊かな生き物だ。-書評-『奇妙な昼さがり』

事実は小説より奇なり。
とはよく言うもんで、実際にそんな風に感じることは、しばしばある。

そう考えると、人間が生きているこの世界には、世に創り出されたショートショートの数よりも多く、まことに奇妙で、まことに珍妙で、ときにゾッとしたり、ときに痛快な気持ちにさせられたり、そんな物語が用意されているものなのだろうか。

答えは、イエスだと思う。そして、答えは、ノーだと思う。

この世界には、際限なく物語りが創り出されては、人間たちがそれらに一喜一憂しながら、生きる気力を失ってみたり、死ぬ決意を覆して歩き出したり、他人事のように言わせてもらうならば、そうやって日々、にぎやかに生きている。
街中でもそう、電車の中でもそう、職場でもそう、居酒屋でもそう、ふと周りの景色を見てみれば、そんなドラマの渦中にいるような人たちで、ごった返している。
きっとそれらドラマの数々は、到底、人間が筋書きを準備できるほどに、理路整然と整えられたものなんかじゃなくって、想像もしないタイミングで始まり、予想もつかないような終結を迎えるような、そんな大作ばかりなんだろうと思う。

でも、それをただ、指をくわえて眺めてばかりはいられない。
物書きは、それに対抗して、どんどんと新しい世界を創り出して行きたいと思う。
ただ生きているだけでにぎやかな、人間の日々の中にあって、そのにぎやかしのひとつに加えていただくべく、そんな奇想天外な物語を、創り出して行きたいと思う。

選択できぬまま、奇想天外に巻き込まれるのが、人間の日々なら。
選択して、好みの奇想天外に没入するのが、小説なら。
選択した好みの奇想天外を、奇想天外なかたちで裏切るのが、ショートショートだな。

だからこそ、答えは、イエスだと思うし、そして、答えは、ノーだとも思う。

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夜の闇の向こう側には、いったい何があるというのだろうか。-書評- 『アフターダーク』

夜には予定調和がない。

夜以外なら、視界に入る誰か、耳の中に言葉を放り込む誰か、歩くだけでも他人と肩がぶつかってしまうほどにこじんまりとした都会という世界、誰かのペースに引きずられ、誰かが作りだした理不尽なストーリーの中に、半ば無理矢理にでも片足を突っ込まされるために、自分の意志などなく、ただただ流されてしまう。

夜も同じ、流されてしまうんだけれど、自分の意志で流れていくイメージがあるんだ、夜には。

どうして夜には予定調和がないのだろうか。
それはきっと、太陽が昇っている間は、何が起ころうとも、やがて陽が沈んで、夜になることを疑わないけれど、夜になり、辺りが闇になり、真っ黒なはずの空がだんだんと月の光に、じんわりと染められていき、なんだか思っていたよりも青いなぁなんて感じ始め、そのうちに、深い夜の空の、どこか白々しいほどの色合いに、人は闇の中でも生きていけるのじゃあないだろうかと、意味のないことを思考に浮かべつつ、ふと思うんだ。

もう、二度と、朝なんて来ないんじゃないだろうか。

僕の世界でも、君の世界でも、夜に予定調和はない。
僕たちそれを知りながらも、そそくさと枕の中に思考を沈め、予定調和だらけの朝に向かうために、眠って眠って、その素晴らしき世界が広がる、いや、素晴らしき世界が蔓延る夜というものを、ショートカットして生きて行く。

たった一度きりでもいい。
もう一度だけ、あの感じ、あの、一生分の憂鬱や楽しみや切なさや悲しみが、恐ろしいまでの密度で圧縮されたような、そんな真っ暗で、薄っすら青くて、どこか白々しいほどの色合いに包まれ、朝のこない、永遠の夜を、もう一度だけ過ごしてみたい。

夜の闇の向こう側には、いったい何があるというのだろうか。

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皆様方、初期衝動はお持ちですか?-書評-『14歳掘

14歳。
一般的には、中学二年から三年の頃。
子供の感覚から、大人(びた)感覚に至るまでの過渡期。

あの頃、自分は何をしていただろうか。
ギターを弾いたり、ビートルズを聴いたり、フォークソングやブルースを聴いたり、ビジュアルロックを聴いたり、純文学に傾倒したり、吉本の二丁目のお笑いに傾倒したり、バスケットして、漫画読んで、妄想して妄想して、悩んだり、悩まなかったり、笑ったり、怒ったり、しゃべったり、黙ったり。

子供の人格形成なるものは、物心つく前、はるか幼い頃に形作られるそう。
じゃあ、大人の人格形成なるものは、いつ形作られるのだろうか。

そう考えると、この、14歳あたりなんじゃないだろうかと思う。

幼い頃に形作られる人格は、ある種、悲しい部分も多いだろう。
親の影響も多いにあるだろうし、家庭環境やら家庭の財政事情やら、住む場所の環境、つまりは、大人たちの傘の下、大人たちが作った世界の中で、ただただ従順させられる。
そうやって人格なるものが形成されるというのも、なんだか人間臭い。

じゃあ、14歳には、何が形成されるのだろうか。

自分は、何者にもなれる、という自由を信じ、世界中に存在するさまざまなものを、自分なりの価値観と、自分なりのアンテナと、自分なりの嗜好で、ちぎっては自分にくっつけ、ちぎっては自分にくっつけ、そうしてどんどんと新たな自分、つまりは大人の人格のベースを形成していくんじゃないだろうか。

根は幼き頃に、蕾は14歳に、そして、開花は、その後の自分の生き様次第。
そう思う。

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それは、好きなことを、好きなように、好きなだけやり続けることだった。-書評-『横山健 随感随筆編』

パンクロックを聴いた。

あの日の衝動は、今も変わらず、あの日の興奮も、何ひとつ変わらず、今も僕を突き動かしてくれる。

長いものには巻かれたくない。誰にも媚びたくない。愛想笑いもしたくない。権力に屈したくない。
この世の中、それを貫き通すことが、どれほど困難なことかは、身を持って知っているつもり。
だけど、疑問符が消えない限り、闘うことはやめない、心無い行為が蔓延る限り、闘うことはやめない。

そこで、考えた。
じゃあ、自分には、いったい、何ができるのだろうか、と。
自分が自分なりに納得して生きていくためには、いったい何をすべきか、と。

その答えは、もう出ている。
だから、あとは、やり続けるだけ。たとえ形を変えようとも、何度でもやり始め、やり続けるだけ。

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何かを始めてしまえば、終わることなんてない、自分という存在が終わらなければ。-書評-『スプートニクの恋人』

多感。

それはとても、生きることに色が多すぎて、誰よりも多くを感じられるがゆえに、たとえ他人と同じものを見たとしても、そこからより多くの印象を受け取ることができて、そしてそれらに対して、より多くの思いを巡らせることができて、だからこそ、とても生き難い。

多くを感じられない人、多くを感じようとしない人からすると、多感な人がどんな思いを脳内、心、神経に巡らせているのかを察することはできない。
だからこそ、多くに思いを巡らせる人が、自分にとって然るべき沈黙を貫き通すときや、多くを思うがゆえに、言葉数を少なにしているときなどに、「考えがない人」などと、軽率なレッテルを貼られてしまうこともあって、なんとも生き難い。

そう。多感な人にとっては、物事の何もかもが、とにかく大袈裟なのだ。大袈裟にならずにいられない。
風が吹く。鼻先にそれを感じる。その瞬間、もう、過去の情景や、あの日あの時の思慮、回顧、罪と罰、未来にも再びこの風を感じることができるのだろうかという不安、明日の自分、今の自分、昨日の自分、そして、世界。

そんな大袈裟な自分が嫌になるときもあれど、たいていの場合は、好きだ。
どんな些細なことに対してでも、これほどまでに思いを巡らせられること、退屈しなくて済む、飽きずにいられる、賑やかでいい、騒々しくていい、だけども、とにかく生き難い。

恋心。

若かりし頃、それはなんて破滅と隣り合わせの感情だろうと思っていた。
密やかに、胸の奥に留めておくべき感情のような気がしたし、一旦それを外に解放してしまったが最後。取り返しのつかない事態へと発展していくのじゃないだろうかという恐怖と、何かが終わり、二度と自分の胸の密やかな部分に、帰ってこないんじゃないだろうかという恐怖。

あの頃の感情はいったん何だったんだろう。
なぜにあれほどまでに怖れて、それを解放することに怖れて、何かの帰結に怯えていたのだろう。

スプートニクの恋人。
多感と恋心。その二つテーマで持って、読了した。

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イケナイ欲望、つまりは正直な欲望に溺れて生きる人間の帰結。-書評-『笑ゥせぇるすまん 夢に追われる男』

欲望は、底なしで、青天井。下にも上にも、際限なし。

常識や倫理や理性というやつは、いつでも欲望を制御し、決め事や法律というやつにも、欲望は制御される。
人間同士の価値観の中で、欲望にストップをかけ、人間が作り出したルールの中で、欲望にストップをかける。

動物として考えてみれば、人間というやつは、自ずとストレスが溜まるように、仕組まれている。
欲望を満たす手段をどんどんと生み出しながら、欲望を押さえつけるルールもどんどんと作り上げていく。
まったく、愉快な生き物。

欲を押さえつけながら生きているから、ストレスも溜まり、フラストレーションも溜まり、果てに欲求不満、心のどこかから湧き出た、満たされることのない、身元引受人を失った消化不良の欲望は、やがて、ドロドロとした色となり、まるで下水管の中、家庭用排水とともに流された油が固まり、凝固してこびりついたラードのように、もう簡単には取れない取れない、除去できない、浄化できない、清浄できない、つまりは、スッキリできない。

ほら、目の前の欲望に手を伸ばして、触れた瞬間には、ビリビリと電気が流れるだとか、あまりの高熱にヤケドするだとか、おりこうさんな僕たちは、そういった制御装置を脳内に刷り込まれて、どんどんどんどんと、欲望に忠実ではなくなる。隠して隠して、隠蔽隠蔽。

でも、ほら、ドーン!

イケナイ欲望、つまりは、正直な欲望に従った人間、それは、社会やコミュニティーの中から、つまはじきにされるかも知れないけれど、どこかしら清々しい表情をしているじゃあ、ないの。

あれほどまでに、無垢な表情で生きるが良いか、目の周りに死相を漂わせながら、欲望を抑えて生きるが良いか、それを決めるのは、あなただし、溺れ生きるのも、溺れ死ぬのも、あなただし。

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味気ないものも、笑いのスパイスと妄想のスパイスを振り掛ければ、こんなにも麗しくなるじゃあないか。-書評-『テースト・オブ・苦虫1』

あぐぐぐぐぐ、妄想が止まらない、目に映る景色の中から、妄想が連鎖して、気が狂いそうだ。
そう思えば、生きるということは、妄想の連続、妄想の連続、愚痴の連続、笑いの連続、何もかもを、笑いに昇華させてやれ、そうすれば、こんなにも同じことの連続の毎日を、自分のクレヨンで、色とりどりに落書きしまくれる、嗚呼、妄想は既にドラッグだ、一度味わえばやめることのできない、中毒性のある物質だ、あぐぐぐぐぐ。

ほら、目の前を歩く疲れきったサラリーマンのおっちゃん。
この人にもきっと、いろんな人生模様があって、いろんな事情を抱えて、今、こうして僕の目の前に、瀕死の表情で現れたわけで、それさえも、数多の妄想を膨らませてみれば、如何様の人間にも想像でき得る。

それだけでも美味なのに、そのおっちゃんがもし、僕に近寄ってきて、「あのぅ……、本町という駅は何処でしょうか?」などと道を尋ね、もし万が一、本町駅が、その場から徒歩三十秒くらいのところにあったとして、このおっちゃんは、ここまでせっかく辿り着いたのに、ゴール三十秒手前で、僕という人間に道を尋ね、独力で何かを成し遂げるというチャンスを無駄にしてしまったではないか、などと妄想すると、これはさらにゴージャスなディッシュに様変わりする、エピソード。

あかんあかん、人っていうものは、何故にこうも滑稽なのだ。
やたらめったら容姿やら身なりに気をつかっている癖に、歯にニラやら七味やらが付着していることには、何故に気づかないで生きれるのだ。
加齢臭をゴリゴリに漂わせて、電車に乗れば疎まれ、エレベーターに乗れば疎まれ、どこにいても疎まれるような身分のくせに、何故にこんなにも、会社の中では、我こそが神なりと言わんばかりに、偉そうに振舞えるのだ。
何故、電車には、ビックリするくらいに悪臭が漂う車両があるのだ。
こんなにも人間を滑稽にさせているのは、いったい、誰の仕業なのだ、誰の思惑なのだ、誰の企みなのだ。

嗚呼、生きていることは、笑いの連続だ。
味気ないものも、笑いのスパイスと妄想のスパイスを振り掛ければ、こんなにも麗しくなるじゃあないか。

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何気なく存在することこそ、失うまい、壊すまいと、包み込むように守らねばならない。-書評- 『ダンス・ダンス・ダンス』

生きることと死ぬことを色濃く意識するならば、何気ない日常というものが、とても特異にも感じられ、貴重にも感じられ、その何気なさを維持することが、どれほどに困難で、それはとても脆く儚く、未来になんの保証もされていない、まるで空想のような存在であることに気づく。

何気なさが、単なる焼き増しのように、無意味なものとして扱われることも多いのではないだろうか?
でも、何気なさって、たとえば、自然に目が覚めた朝だったり、そこに降り注ぐ朝日だったり、鳥の鳴き声、子どもたちの通学中の笑い声、雲、空、水、そういったものが形成する何気なさというものは、実は、とんでもなく繊細なバランスで保たれていて、どれかの均衡が少しでも狂うと、いとも簡単に崩れ去ってしまうようなものだと思う。

生まれて、物心ついたときから、そういった何気なさに包まれ過ぎていて、さも当たり前のように感じもするけれど、それは奇跡といっても過言じゃない。決して言い過ぎにはならない。だから、人間、それぞれが、退屈そうに持て余す何気ない日常というものは、人間、それぞれの奇跡たちということになる。

僕たち人間は、本来ならば、偶然手に入れたチャンスやら、何かのきっかけで舞い込んできたラッキーやら、そういった何かしらの特別を大切にするのではなく、ごくごく当たり前に、そう、何気なく存在することこそ、失うまい、壊すまいと、しっかりと抱きしめねばならないはずだ。

そして、その何気なさを一度手に入れたなら、決してそのつないだ手を離さないこと。

僕たちは、音楽が鳴り続ける限り、きちんとステップを踏んで踊り続ける必要がある。
そうやって舞い続ければ、やがて答えが現れて、霧が晴れたみたいに解放されることだろう。


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面白く生きるのではなくて、生きることは、そもそも面白い。-書評- 『永遠も半ばを過ぎて』

日常とはユーモアの連続だ。
何も、ユーモラスに生きる必要なんて、ない。
日常そのものが、ユーモアの連続だから。

目新しいことなんかしなくたって、無駄に高いお金を支払わなくたって、誰かに用意された刺激の中に埋没しなくたって、普通に生きていて、その中で、普通の自分を感じながら、日常の面白さを味わう。

生きること、風情、情緒、当たり前、普通、いなせ、粋、ただ生きる、ただ生きる。

些細な空想から、微細な妄想から、何かが狂い出して、その狂いこそが、日常の中の違和感になって、その違和感って、新鮮で、斬新で、知らない自分に出会えたり、知らない景色に出会えたり、あとは、いつもの自分を違う風に感じたり、いつもの景色が、見たこともない景色に感じたり、そうすれば、しめたもの、それが日常の面白さ。

ただし、とっても、マニアックに生きたいものだ。
自分が日々やっていることが、たとえ、他人から見て、くだらないものだとしても、そのことに対して、誇れはしないにせよ、マニアックに、誰よりも深く、誰よりも楽しんで、自分だけが独占する、そんなものにしていたい。

薄っぺらいのなんて、味気ないから。
薄っぺらいのなんて、しょうもないから。

他人に理解なんてされなくたっていいんだ、誰にも迷惑をかけなければ、別に。
他人に理解されることなんて、とても、しょうもないんだ。

そして、その、他人の理解を超えた珍妙な日々の中で、頬を赤らめるような出会いがあったり、自分にしか理解できない拘りで涙したり、誰の目にも触れない物語が発動したりする。

それを称して、生きるというならば、生きることは、特異で奇異で、それでいて、豪華な演出で設えられていると感じやしないだろうか。

たとえば、立ち飲みやの暖簾の向こうに、日常の風景を爆発させるほどに衝撃的な出来事が、待ち受けてるやもしれない。

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長く長く続く、あなたの人生の中の沈殿物として、どうぞ。 -書評- 『ボッコちゃん』

ショートショートに取り憑かれてから、ずいぶんが経つ。
ショートショートを書くようになってから、ずいぶんが経つ。

こんなにも、にぎやかに感情が揺さぶられること、ショートショートにしかない魅力だと思う。

ある物事があるとする。
青色を見て、青色と思う。
そして、その青色を、青色だと表現しようとする。
その表現こそが切り口で、ショートショートには、その切り口のご法度がない、と勝手に解釈している。

要するに、面白ければ、それでいい。

たとえば、クシャクシャに丸めたチリ紙を、少し離れた場所から、ゴミ箱に放り込もうとする。
狙いを定める。
投げる。
行方を見守る。
そして、ゴミ箱の中に、スポッ。
その瞬間の、心がスカッとする感じ。
僕の中では、ショートショートから味わう痛快な気分は、そんな感じ。

でも、それが難しく、仕様もスペックもカラーもさまざまで、だから、面白い。

伏線は?問題定義は?主義主張は?ミステリアス?ホラー?SF?サイコ?お笑い?
表現方法は?感情表現は?人物描写は?情景描写は?

これほどまでに短い世界の中で、これほどまでに中身が凝縮されている。

昨今の人たちは、ビタミン剤やサプリメントで、手っ取り早く栄養分を補ったりしているそうだ。
手っ取り早く、痛快さを吸収したいなら、間違いなくショートショート。

だけど、侮ってはいけない。

手っ取り早く吸収したものが、生涯続く印象として残ることが、何度もある。
こんなにも短い世界が、長く長く続く、あなたの人生の中に、沈殿物として、残り続けるからこそ、面白い。

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大阪人として大阪を語ってみようと思った

まずはじめに、僕は大阪という町が、めちゃくちゃ好きである。
日本という国がどうかは知れないが、大阪という町は、世界に誇れる町だと思っている。

大阪は、人で成り立っている。
だから、好きだ。

テレビの企画などで、町行く一般の人たちが登場することはよくあるけれど、大阪の人たちは、問答無用、圧倒的に面白い。受け答えにしてもしかり、リアクションにしてもしかり、笑う姿にしてもしかり。

それは総じて、サービス精神と目立ちたい精神。
このあつかましさが、好きだ。

20140607

先日、大阪は千日前、老舗の立ち食い焼肉に、十数年ぶりに顔を出してみた。
七輪が四つあるだけの店。お客は狭い店内に肩寄せ合って、ホルモンを堪能する。時には見知らぬお客と、七輪を共有し合いながら、ホルモンを楽しむ。

えらく久しぶりに来たもんで、感慨深い気持ちに浸りながら、ガツガツとホルモンを食べつつ、お客たちに目をやる。
ひとりで来店し、黙々とホルモンを食している、僕よりやや人生の先輩といった風情の男性。
その隣には、僕よりやや人生の後輩といった若い二人組の男子。
おもむろに男性は、

「どうせ残ると思うから、飲みーや」

と言いながら、その若者たちの、グラスに瓶ビールをついで行く。
いきなりの好意に一瞬だけ若者たちも驚いていたみたいだけれど、グラスに注がれたビールを持って、その男性に、「いただきます、乾杯!」グラスをぶつけ合う。

男性は少しだけ男前に笑って、また黙々とホルモンに手を伸ばし始める。

その後、店も繁盛してきて、四つの七輪の数よりも、お客の数のほうが多くなる。
お客ひとりに対してひとつの七輪があるわけではないので、お客同士、七輪を共有し合って食べる必要がある。

ある若い男子が、隣のお客の使っている七輪にホルモンを置く際に、「おじゃまします!」
清々しい礼儀に、心が躍りだしそうになった。

こんな光景を風情と呼ばずして、何を風情と呼ぼうかしらん。

とにかく僕の中では、世界は、大阪と大阪以外、と言い切ってしまうくらいに、大阪という独特の人文化が好きなわけで、ウルフルズの大阪ストラットという曲の歌詞にもある通り、「他に比べりゃ外国同然」というのは、ズバリ、よう言うた!なわけである。

僕の住む町には、天使のダミ声と称される憂歌団の木村充揮が住んでいる。
木村充揮というシンガーは、心の底から唯一無二のブルーズマンだと思っていて、あの声、あの表現、あの全てが、誰にも真似のできないものであり、聴いていて笑いながら涙を流すことのできる数少ない歌い手だ。

一度でも木村充揮のライブを観にいったことがある人は知っていると思うけれど、そのライブでは、大阪の人間臭さが満載。

ライブを観に来たお客たちは口々に、

「おーい!木村のおっちゃんー!」
「あほー!」
「早よ歌えー!!」
「次歌う曲、忘れたんと違うかー!」

木村充揮にガヤを飛ばす。

「やかましわ、あほー言うもんがあほじゃ」
「どっちがおっちゃんじゃ、あほ」
「早よ歌とたら、演奏失敗するさかいなあ」

と、客席からのガヤに応える木村充揮。

いざ演奏が始まると、その歌声と演奏に、会場中は、完璧に魅了される。
曲が始まるや否や、今までガヤやツッコミを入れていたナニワのおっちゃんから、絶対に手の届かない孤高のアーティストに変わることを、お客たちはみんな知っている。

大阪人以外なら、この光景を見れば、表現者というものの価値観が大きく変わることは間違いない。
大阪では、「そんなん、当たり前」である。
気取ってる人間なんか相手にせんし、繕う、着飾る、そんなんいらん。

それほど愛してやまない大阪が、今やどんどんと変わって行ってしまっている。
無機質で巨大なビルが建ちまくったり、老舗のアーケードや商店街が取り壊されたり、繁華街もどんどんと整備されたり。

まるで、東京の真似事みたいなことばっかり。

人が肩を寄せ合える場を作らないと。
それで自然と会話が生まれて、笑いが生まれて、環ができる場を作らないと。
七輪を間借りする時に、「おじゃまします!」と言える大阪らしさを消したらあかんのですよ。

流行もんみたいな施設ばっかり作って、流行もんみたいな街にしていくから、若い人たちは風情を知らずに育ってしまうわけで、そうしたら、「関西弁を喋る東京の人」みたいな、そんな何処ともつかないような世代が出来上がってしまうと思うわけだ。
木と同じ。苗木づくりから、立派な木になるまで、何年もの年月が必要だ。
手っ取り早く、都会的な木ばかりを植えまくったとしても、そこには何の文化も根付かない。

僕は大阪という町が、めちゃくちゃ好きである。
だからこそ、言いたい。

「大阪を変えないと!」「大阪を変えよう!」と、やたらと叫ばれる昨今。
大阪人が、何か悪いことしたか?
大阪人が、自ら望んでしたことで、大阪が悪くなったんか?

全て、政治や行政などと呼ばれる地位と名誉と権力ばかりを気にするお偉いさんたちが決めたこと、それのせいで勝手に「変えなあかん」状態になってしまったんじゃないのか?
自分たちで悪化させておいて、「大阪変えよう!」は、ないだろう。

先日、東京のお客さんと仕事でしゃべっている時に、

「大阪って、何か、ビルできるんですよね?」
「あべのハルカスですね」
「ハルカスっていうんだ?あれって、何かめちゃくちゃ高いんですよね?」
「日本で最も高い超高層ビルなんですよ」
「へぇー。そうなんだねえ」

世の中の事情に疎い幼子と話していたわけじゃない。
立派に仕事ができる、知識も常識も良識も豊富な、一般的な男性の方だ。

結局、あべのハルカスなんか、東京の人には知られていないし、興味さえ持たれていない。
東京の真似事なんて、そもそも出来ないし、やっても意味がない。
お偉いさんは、今後、大阪をどこへやろうとしているのか。

アメリカ軍の基地が移設されることに反対を示す気持ちは、理解できるんだろう?
それじゃ、意味のわからん施設がボコボコと作り上げられ、町が犯され続けているのに、なぜに何も感じんのだ?

全てを肯定するわけじゃないが、アメリカ軍は、世界の警察として、この世界を守っているそうだ。
大阪のお偉いさんは、じゃあ、何を守ってくれるんだろう?

嗚呼、冷えた瓶ビールが、うまい季節だ。

自分にしか持ち得ない描写、解釈、感覚、それらを覗き見させてもらうといった趣と世界観の原点。-書評- 『先端で、さすわさされるわ そらええわ』

自分にしか理解できない描写、解釈、感覚、それらは確かに自分の中に存在している。

でも人は、何かを感じ取った瞬間に、世の中的に理解できるような描写、解釈、感覚へと変換して自分の中に蓄えようとするから、だから、味気ない感覚ばかりが、心の中に蓄積されてしまう。

でも本当には、自分にしか理解できない描写、解釈、感覚で、全てのことを吸収してしまってもいいはずで、誰かと馴れ合いながら、貧弱な絆でもって生きて行くことを、自分に課すことさえしなければ、脳内はきっと、そんな特殊な香りに包まれていても、いいんだと思う。

信号の色なんて、緑と茶と、黒で、いいんだって。

そんな風に自分を解放してやることができれば、通い慣れた道とか、見慣れた風景とか、ありきたりな日常とか、そんなもん、全部なくなってしまうわけで、そうすれば、自分の中だけの世界に、ずっとずっと、引きこもっていられる。

それが、いいか悪いかは、別として。

それでいても、引きこもった自分のままでも、上手く社会と折り合いをつけたように生きて行くこともできる。

そう、道化。

お道化ていさえすれば、心の中がどんなに闇に支配されていようとも、風通しのよい心の持ち主であるかのように、イミテーションとして、生きて行くことができるし、世の中の苦味や苦味や苦味なんて、道化の笑顔が浄化してくれる。

世を、もっと、情念を持って眺めてみれば、ぐにゃぐにゃに歪んだ言葉だって見つかるだろうし、なんだか濃くてドロドロとして飲みにくいドリンク、つまりは、喉ごしなんて全くないような、濃密な自分が見つかるかも知れない。

先端で、さすわさされるわそらええわ
川上 未映子
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だから本当は、生きることこそが、ひとりぼっちなんだと思う。-書評- 『罪の余白』

ぼくたちは、いつでもどこでも他人の目を気にして、他人の評価を気にして、他人にどう思われるか、他人にどう思われているか、そればかりに囚われて生きている。

洋服を着飾ることだってそう、髪型を気にするのだってそう、聞きたくもない話に相槌を打つことだってそう、愛想笑いをすることだってそう、Facebookで自分の自慢をすることだってそう、誰かの悪口に相乗りすることだってそう。

地球に君が、地球にあなたが、地球にぼくが、もしもひとりぼっちだったとしたら、きっとそんなことはしないはず。

それなのにぼくたちは、来る日も来る日も、他人ばかりを意識して生きて、口では他人のことなんか気にしないなんて、キレイ事を言ってはみるものの、毎日のわだちは、きっちりと他人の方を向いているんだ。

そして、その他人からの評価の全てが、自分にとって都合の悪いものへと、ある日突然変わってしまうとしたら?
これまで繕ってきた他人からの評価が、ガラリと不都合なものへと変わってしまったとしたら?

それは、学校だけでなく、社会でも起こりうる。
イジメはどんな場所にでも起こる。

そんな不都合な場所からは、逃げ出してしまえば?
そう思うかも知れない。

でも、ぼくたちの多くは、他人の目ばかりを意識して生きるだけでなく、自分のいる半径数十メートルの世界だけが、自分の生きる場所だと思い込んでしまう。

そうなると、もう雁字搦めになってしまうんだ。

死は、君だけのものじゃない。
ひとりぼっちでは、死ぬことはできない。
君が置き去りにしたものたちは、ずっと残り続けるから。

だから本当は、生きることこそが、ひとりぼっちなんだと思う。

罪の余白
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若者たちだけが集うことのできる、放課後という時間。 大人はそれを、傍観することさえ許されていない。 -書評- 『放課後』

若い世代とそうでない世代には、『捉える重み』に、圧倒的な乖離があるんだろう。

自分自身のこと、自分自身に巻き起こること、周りのこと、周りからの評価、そして周りから受ける評価や影響を織り込んだ末の自分の姿、そして世の中のこと。
それら全てを繊細に捉えるからこそ、全てが大きな問題になってくる。

その大きな問題を、小さな消化器官で消化しようとするから、負荷も多くなり、時に消化不良を起こしたり、心の負担や疲れを引き起こしてしまう。
それこそが、若い世代が一様に抱えている『正体の見えない不安』なんだろうと思う。

それに比べて、生きることに慣れてしまった、若い世代ではない世代の人たちというのは、もう、知ってしまっているから、いろいろと知ってしまっていて、既に持っている答えの中で、何もかもを処理しようとするから、そして、人間が生きるフィールドというものは、かなり多くの部分を、ルーティーンが占めているから、慣れてしまえば、ある程度惰性で進むことだってできる。

そして、その惰性な感覚こそが、若い世代との、圧倒的なギャップを生んでしまう。

大人は、自分たちが既に知っている答えの中に当てはめて、若い世代を見て、聞いて、判断しようとする。
自分にないものをその中に見出そうとする勇気よりも、ある種の掌握、君たちの言うこともわかるよ自分もそうだったから、その考え方じゃ通用しないよ経験上、そのまま行けば答えは見えているよ常識的に、といった風に、手にした物差しで推し量ろうとする。

でも、その、既に持っている物差しで推し量ろうとする行為は、楽で楽で、手抜き極まりない。
だって、物差しで測れる部分以外は、存在しないものとして扱ってしまえばいいんだから。

きっと、若い世代には、大人たちのその、手抜きな感じこそが、胡散臭く、忌み嫌う痴態として、吐き気がするほど嫌悪の対象になるんだと思う。

上限が決まっている前提で、その範囲内のものしか測ることのできない物差しを、まだ手にしていない若者たちだけが集うことのできる、放課後という時間。
大人はそれを、傍観することさえ許されていない。

放課後 (講談社文庫)
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幕切れが来るまでは終わることなく動き続けている、この名も無き世界。-書評-『名も無き世界のエンドロール』

僕たちの毎日も、本当はこんなにもドラマチックなことが潜んでいて、ドラマチックな事情に満ち溢れながら生きているはずなのに、それを見ようともせずに、日々の人間関係や日々の仕事に追われまくりながら、味気のない日々を生きた気がしている、自分勝手な生き物、現代に巣食う人間たち。

こんなにも個人的な事情を抱えて生きている人間たちの毎日が、本当は、味気ないもののはずがないのに。

自分の目に映る世界に住む人たちは、全て、自分にとってのエキストラかも知れないけれど、そのエキストラの人たちから見れば、僕たちも単なるエキストラであって、となると、そのエキストラの人たちも、日々を主役として生きていて、だから僕たちは、その主役として生きている人たちの中の、ただのエキストラに過ぎない。

言い換えてみれば、人間の数だけ、主役の物語が、あると。

その物語のほとんどは、人に知られることもなく存在している物語で、それはすなわち、名も無き世界ということになる。
その名も無き世界の中で、人間たちは、死ぬほど笑ったり、死ぬほど泣いたり、時に本当に死んでしまったり、時に死ぬことを踏みとどまったり、まるでフィクションとして創られたようなストーリーをノンフィクションとして生きている。

その世界のことなんて、誰も知らなくったって、いい。

でも、そこは、紛れもなく世界で、その世界の中で僕たちは生きている。
あっけない幕切れが来ることを怖れる気持ちに気づかないフリをして、台本をペラペラとめくり続けている。

生きてるだけで充分じゃないか、というような生温かい言葉もあるかもしれないけれど、そうは思わない。

少しでも多く、この素晴らしき世界を味わってやりたいという、貪欲な気持ちで、自分の名も無き世界を謳歌してやりたい。

名も無き世界のエンドロール
行成 薫
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あなたが周りから受ける演出と、あなたの内で滾る熱量について。

人が生きている中で巻き起こるいろんなことは、その人へのあくまで演出なのではないかと思うに至る出来事が、たくさんたくさんあるもんで、人によってはそんなことを言ってしまうと、怒られてしまうんじゃないだろうかって気もするけども、ともかくそんな風に思ったわけです。

スーパーマリオブラザーズというゲームをやったことがあるでしょうか?
そのゲームの中で、水中のステージがありまして、その中でマリオは泳いでステージを横断していくわけですが、コントローラーのボタンを押すと、マリオがプカッ、もう一度押すと、またしてもマリオがプカッ、ボタンをエイエイと二度押すと、マリオがプカプカッと、浮き上がるわけ。
つまりは、ボタンを押さないと、連打し続けないと、マリオの身体は浮き上がろうとすることを忘れ、どんどんと沈んで行くことになるのです。

だから何が言いたいのかというと。

20140215
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「質も量も」という欲張りな願望から、僕はショートショートを読み漁る。-書評- 『猫の事件』『短編小説より愛をこめて』

一冊の中で、笑いや興奮や感動を、たくさん味わうことのできる、ショートショート、短編小説。

もちろん、長編小説のように、末永く尾を引く読後感はないかも知れない。
と思いきや、侮ることなかれ、短編小説にはもちろんのこと、ショートショートにも、永代語り継ぎたくなるような名作は多数ある。

そんな一作に出会える喜びが忘れられなくて、今日もショートショートを読む。

阿刀田高氏も、『短編小説より愛をこめて』の作中で、こう語っている。
読書はすばらしい。何より楽しい。安価で、どこでもいつでも一人で楽しめる。
なかでも、読者に時間をとらせず負担をかけない短編は、「礼儀正しい文学である」。

これほどまでに、短編小説の『人となり』を言い得たひとことは、これまでに見かけたことがない。

またしても、ショートショートの魅力に取り憑かれた人間が、新しい短編小説に手を伸ばしてしまう。そんな中毒性が、たまらなく好きだ。

こんなにも短い文章量の中で、しかも読者がその作品に触れている時間は、ものの3分から5分程度。
その中で、これほどまでに、笑いや涙、毒や薬、感動や怒り、アンチテーゼやプロパガンダ、マニフェストだろうが何だろうが、徹底的に洗練された言葉を持って詰め込み、練りに練られた構成の中で、オチまで持っていけるショートショート。

短編ファンの阿刀田高氏は、短編小説と『心中してもいい』と言ってのけるほど。
確かにそう言われてみれば、僕はショートショートと『無理心中してもいい』とまで言ってしまいたいくらいに、こよなく愛している。

人生、楽しみは多いほうがいい。
読書だって、そうだ。

「質より量を」という意味でショートショートを選んでいるわけではなくって、「質も量も」という欲張りな願望から、僕はショートショートを読み漁る。

新装版 猫の事件 (講談社文庫)
阿刀田 高
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短編小説より愛をこめて (新潮文庫)
阿刀田 高
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about me

大阪モダンディスコ
常盤 英孝
自分史[プロフィール]

大阪のモノ書きでありWeb屋であり広告屋。

どうにかロクデモナイ売文稼業家としてメシを食っていける日を夢から現実に変えるべく、うぬぼれ一本で今日もくだらん文字を書き続ける日々。

大阪を盛り上げるべく、たくさんの人と出会い、とにかく"コトを起こす"ことをお酒の肴に呑んだり、わいわいやったり、時には本気で"コトを起こしたり"など。

日々、書き、描き、話し、モノづくりをしています。

モノ書きとして活動しながら、中小企業・個人事業主の方々のWebサイト制作のニーズを叶えるべく、そのお手伝いもしています。

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